今年の9月に公開されたばかりの黒澤清監督の最新作が、さっそくAmazonプライムにお目見え。
本年度の最終鑑賞作品とさせていただきました。
すでに巨匠の域に達した感のある黒澤清監督ですが、それでも毎回新しいジャンルに挑戦しようというアグレッシブな姿勢には頭が下がります。
今回監督の目指したのは、アクション映画でしたね。
後半、工場の廃墟を舞台に繰り広げられる銃撃戦へと流れていく展開は、最近の日本映画ではなかなか見られないものだったかもしれません。
トム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」のような派手なアクション映画とは完全に一線を画す、現代日本映画ならではの独特なタッチのアクション映画でした。
そもそも、諸外国に比べて銃規制の厳しい日本では、この分野に特化したアクション映画はなかなか根付きませんでした。
古くは、日活のスターたちが、やたらと拳銃をぶっ放していたアクション映画が人気を博しましたが、これらの映画は無国籍映画などと呼ばれており、その名の通りどこか日本離れしていました。
当然のことながら、アメリカの刑事ドラマとは違い、日本の刑事ドラマに登場る刑事たちは基本的に、銃は持っていても発砲はしません。
石原裕次郎主演の人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」は、名物ともなっていた新人刑事たちの殉職シーンの多くが拳銃によるものだったので、印象には強く残りはしましたが、通常のドラマでの発砲シーンはそれほど多くなかったと記憶しています。基本的に銃撃シーンにはストイックな姿勢を貫いていました。
これを決定的にひっくり返したのが、石原軍団による「西部警察」でした。
このシリーズは、最初は倉本聰が脚本に参加するなど、けっこう地味な刑事ドラマでしたが、第二シーズンからは完全にイメージ・チェンジ。
銃撃戦、カーチェイス、爆破シーンのオンパレードで、主演の渡哲也によるヘリコプターからのライフル射撃なども飛び出すド派手な演出で多くのファンを獲得しました。
しかし、その迫力には歓喜したものの、見ている方はどこかで、これはファンタジーだと冷めている部分もあった気がします。
海外のミステリーなどを読んでいると、自宅に寝室の引き出しに、普通に拳銃が隠されているのは当たり前の話。
銃社会の代表国アメリカに関していえば、なんといっても憲法修正第2条により「武器を保有し携行する権利」が憲法で保障されているわけです。
州ごとに規制は異なりますが、それでも多くの州では拳銃を含む銃器の所持が比較的容易です。
学校などのいじめや、社会の歪んだ差別により心を病んだ青少年が、銃やライフルを安易に手にすることの意味は重大で、時折ニュースを賑わせる無差別乱射事件の悲劇は、アメリカ社会から一向になくなりません。
自衛のために所持しているはずの銃が、犯罪のために使われるだけでなく、今やストレス発散のために使用されるようになっているわけです。
やはり問題の大前提は、そこに銃があるからでしょう。
銃による殺傷は、刀剣による殺傷とは、殺人をする者の心の負担と体力の負担が明らかに違います。
黒澤明監督の傑作時代劇「椿三十郎」のラストは覚えている人も多いと思います。
仲代達也演じる室戸半兵衛を、三船敏郎演じる椿三十郎は、左手で鞘を引きながら刀を最短距離で抜き放つ「逆抜き」による一閃で勝負を決めました。
しかし、血の海に沈む室戸を見下ろしながら、三十郎は、まるで100メートルを全力疾走したように肩で息を切っていました。
反対に、「荒野の用心棒」のクリント・イーストウドも、「シェーン」のアラン・ラッドも、「レッド・サン」のチャールズ・ブロンソンも、早撃ちで相手を仕留めた後は、眉一つ動かしていません。
つまり、人を殺すという行為に対して、明らかに銃の方が心理的距離をおけるわけです。
それはしいて言えば、殺人という行為に対するハードルが低くなるということと同義になります。
銃を肯定してきた社会と、それを認めていない社会での、殺人事件の発生率の差は統計を見る限り歴然です。
そしてそれよりも、なによりも重大なことは、銃でひとを殺すのに技術はいらないということ。
刀で人を殺そうと思うなら、それなりの技術が必要です。
素人がむやみに振り回しても、せいぜい切り傷を与えるのが関の山。
時代劇の殺陣ではバッタバッタとなぎ倒しというシーンが見られますが、実際に人を本気で殺そうと思うなら、人間の体の急所から外すことなく突き刺さない限り無理なのだそうです。
ですからミステリーの刺殺によく描かれるのは、被害者をメッタ刺しにして絶命させるというシーン。
たくさん刺したうちのいくつかが致命傷になるだろうというわけです。
しかし、その点銃殺は簡単です。
中学生でも、殺し屋でも、やることは撃鉄を引いて引鉄を弾くだけ。
至近距離に立って撃ちさえすれば、誰でも比較的安易に人を殺せるわけです。
しかし、そんな犯罪大国アメリカの文化であっても、戦後の日本人はアメリカ社会にあこがれ続けてきました。
我が父親などは、浴びるように西部劇を見てきた世代ですし、僕もその影響は受けています。
不謹慎ながら、殺人をエンターテイメントと捉えると、やはり銃殺はかなりスマートです。
顔色一つ変えずに射殺しておいて、その相手に向かって軽口の一つも吐き捨てるジェームズ・ボンドには問答無用に痺れるわけです。
拳銃を所持することはできないけれど、銃を背広の下の銃ホルダーに忍ばせてブロンドの美女を抱き寄せるハード・ボイルドのヒーローたちには無条件で憧れるわけです。
PTAがどれだけ眉を顰めようと、「カッコいい」には理屈やモラルは通用しません。
日本では無理でも、それをフィクションの世界で楽しむのなら文句はないだろうというわけです。
その屈折した拳銃に対する憧れは、日活の無国籍アクション映画だけでなく、おもえば僕の子供の頃の少年漫画にも如実に表れていました。
「鉄人28号」に登場する金田正太郎は、まだ少年のくせに、半ズボンにネクタイを締めて、当たり前のように拳銃を所持していました。
アニメ「キャッツ・アイ」の冴羽獠は民間の私立探偵であるにもかかわらず、常時コルト・パイソン .357マグナムを携帯していました。
もちろん、実際には銃刀法違反や発砲罪に問われて然るべき行為なのですが、フィクションの中くらいは、やりたいようにやらせてということなのでしょう。
法律で禁止されればされるほど、日本人の秘めたる潜在的な拳銃へのあこがれ嗜好は強くなるばかり。
僕よりも年長の従弟の一人は、若かりし頃、ただ拳銃に触れられるという一心のみで、陸上自衛隊に志願したといっていました。
ただ拳銃を撃ちたいという理由だけで、定期的にグァム島へ通っていう友人もいました。
少年時代に、モデルガンを手にして、鏡に向かってポーズをとっていたことのある少年は、おそらく僕だけではないでしょう。
しかしそんな隠れ拳銃ファンをこじらせたまま大人になると、なにかをきっかけに、所持出来ないのなら自分で作ってしまおうというふうに発想がジャンプし、2022年7月に発生した安部元首相銃撃事件などというとんでもない犯罪を犯すようになる輩も出現するわけです。
この事件は、日本人の感覚としてはおよそ現実離れしており、世の中も変わったと実感したものでした。
え!? ここはアメリカかよ、という感じです。
そんなわけで、およそ日本的ではない銃撃戦というアクション・シーンを、映画のクライマックスとしていかに説得力を持たせるかに、監督はかなり腐心されたと思っています。
それが、本作における黒澤清監督の挑戦であったという気がします。
しかし結論から言いますと、監督はこれを説明することをはなから諦めていた節があります。
こんなことは、日本という社会の中では、リアルになりようがないという達観があった気がします。
その代わりに、監督がこの映画の前半で克明に描いたのは、ネット社会の闇でした。
主人公の吉井良介(菅田将暉)は、リネン関係の会社に勤めながら、副業として転売ヤーをしている青年。
安く仕入れたものを、可能な限り高く売って、その利ざやで稼ぐ仕事です。
ラーテルというハンドル・ネームを使っているのは、本人がこれが場合によっては「ヤバい」仕事になることがあることを自覚しているから。
しかし、本人自身はこれを仕事と割り切っており、それほどの自覚はもっていません。
偽物をブランド品と偽って販売するのは、商標法違反、詐欺罪、不正競争防止法に抵触する立派な犯罪です。
しかし本人は、売り切って証拠を残さなければ、捕まることはないとして、この仕事にのめりこんでいきます。
吉井は、現代社会における「無自覚な加害者」の象徴です。
彼が転売業で利益を追求する行為は一見無害に見えますが、その行動が知らず知らずのうちに他者に憎悪を撒き散らし、最終的には自分自身がその憎悪の標的となるという事態を引き起こします。
そして、吉井の命をつけ狙う謎の集団は、現代ネット社会特有の問題(匿名性、人間関係の希薄化、孤独、欲望など)を象徴しています。
彼らの特異な関係性は、すべてインターネット社会やデジタル化によって加速された問題として描かれており、ネット上での被害者は、いつかそのまま「無自覚な加害者にもなり得る」という警鐘を鳴らしているわけです。
吉井が謎の集団に命を狙われるようになるまでの経緯を、黒澤監督は得意のスリラー映画のタッチで描いています。
まさにこのあたりは黒澤演出の面目躍如。
やはり「得体のしれない何か」を演出させたら、今の日本映画で、この人の右に出る監督はちょっといない気がします。
しかしこのタッチが、あきらかにシフトチェンジするシーンがありました。
そのシーンに登場するのが、本作ではこのシーンにのみ登場する白髪の松重豊。
吉井の転売業のアシスタントをクビになった佐野(奥平大兼)という青年に、拳銃とGPS探知機を渡す組織の人物を演じるのですが、アップのカットが一度もなくてもさすがの存在感。
「孤独のグルメ」の井之頭五郎とは、まったくの別人になっていました。
実はこの佐野という青年が、結局最後まで正体の知れない謎のキャラでした。
彼は吉井を助けるようでいて、同時に吉井をさらなる危機へ導く存在としても描かれています。
この曖昧さは、現代社会における善悪の境界線や、人間関係に潜む不確実性を表現しているようにも見えます。
謎の集団との銃撃戦において、次第に吉井が覚醒していくのに対し、佐野は終始平然と相手を射殺していきます。
このあたりの薄気味悪さは、「CURE」で描かれた殺人者たちや、最近見た「散歩する侵略者」の松田龍平に通じるものがありました。
この佐野の正体を、黒澤監督は結局最後まで明確に描くことあえてしていません。
最後まで引っ張られた身としては、ちょっと肩透かしを食らった気になりましたが、考えてみればこれは完全に黒澤監督の術中にハマっていましたね。
もしも、この謎の男の正体に対して、よくありそうな回答が用意されていたら、それはもはや黒澤タッチではないのかもしれません。
得体がしれないからこそ、そこには恐怖という余韻が残るというわけです。
ネットの中に潜む悪意をホラーとして描き、その爆発をアクション映画として描き、最後は、吉井と佐野の関係性をファンタジーとして終わらせる。
本作は、黒澤清監督によるジャンル横断映画ということになりそうです。
実は、サラリーマン時代には、副業としてヤフオクなどをかなり本格的にやっていた時期があります。
主要商品は、使わなくなったパソコン周辺機器がメインでしたが、ブック・オフなどで安く仕入れたCDや書籍の転売をしたこともあります。
もちろん商品の程度や写真などに虚偽記載をしたことはありませんでしたが、宣伝文句はかなり盛った記憶はあります。
本作を見終わってみると、そんな些細なことでも、ちょっと相手をこじらせると、コチラが命を狙われる展開になることも有り得るのだとゾッと致しました。
転売を生業にしている方も世の中にはたくさんいらっしゃると思いますが、是非アコギなことだけはなされませんように。
相手をあまり舐めていると、そのうち手痛い一発をクラウド。