ビジネスの論理を持ち込むと、農業は歪む。
素人ながら、農業に携わるようになって、うっすらと頭の片隅に芽生えてきていたことを、各方面の論客たちが、見事に言葉にしてくれた一冊。
目から鱗というのは、自分が思ってもいなかったことを提示してくれたという青天の霹靂というよりもむしろ、言葉にはならないけれど、実感として、心の中にあったものを、具体的に言語化してれたサプライズのことを言うのかも。
とにかく腑に落ちました。
やっぱり、そうなんだよな。
定年退職以来、あちらこちらに、農業研修に伺い、様々な農家の話を聞いてきました。
役場の方が、新規就農希望者に紹介してくれる農業は、基本的には農業における成功例。
法人、もしくはそれなりの規模の個人経営で、地方で成果を上げている優等生農家です。
都会から移住してきて、4ヘクタールもの広大な農地を、モノカルチャーで大量生産している農家。
専用のマイコン制御の耕運機をフル活用して、少人数で生産効率を上げていました。
農薬散布にドローンを活用して、コストパフォーマンスを実現している農家もありました。
人手不足解消のために、AIを駆使するスマート農法は、いまや農業界のトレンド。
僕よりもはるかに若い、就農希望の青年たちの目は、ランランと輝いていました。
もちろん、それを悪いとは言いません。
どれも経済サイクルの中で、きちんと求められている農業です。
ビジネスとして、成果を出している農家ですね。
若者たちの目は輝いていましたが、残念ながらどうもこれが老人にはしっくりこない。
というよりも、そういうきっちりお金になる農業に、魅力を感じないんですね。
しがない百姓希望の老人として、参加する様々な就農イベントでは、ひたすらこう言い続けてまいりました。
「定年でサラーマンをやめて、就農を希望する身としては、今更、農業で稼いで、一旗あげようなどという気はサラサラありません。
それよりは、自分一人分の暮らしを、農業を生業にして、粛々と築いていければいいだけ。
便利で快適な老後を送ろうと思うなら、都会にいて、まだサラリーマンを続けています。
要するに、貧乏することも、不便になることも含めて、自然に寄り添いながら、残りの人生で、働くことを楽しみたいだけ。」
ですから、目の色輝かせて、生産性だなんだと言われてしまうと、やはり腰が引けてしまいます。
定年退職して、3ヶ月。
職業を尋ねられれば、「なあんちゃって」ではありますが、一応「農業従事者」と書くようにしています。
「今何をしてるのか」と聞かれれば、多少の負い目は感じつつも、「野菜を作っている」とは答えますね。
しかし、最近思うことが1つ。
こと野菜に関して、どうもこの「作っている」という表現は、ちょっと違うんじゃないか。
どういうことか。
つまり、百姓は、決して畑から野菜を「生み出して」はいないという感覚です。
パソコンや、車や、建築物なら作っているでいいかもしれません。
ちゃんと、何もないところから図面を引いて、一から作るわけですから。
そして、その先も人間が手を出さなければ、完成までにはたどり着かない。
まちがいなく、人間の手が作り出しています。
でも、野菜はちょっと違う。
大きく育っているのは、彼ら自身で、それを育てているのは、ほとんどが自然からの恵みのおかげ。
人間は、その成長に手を貸しているだけ。
かりに人間が、手を貸さないとしても、彼らは自分のペースで勝手に育っていきます。
冬場に、大きなハウスに押し込んでまで育てなければ、彼らは、普通に土の下で春の準備をしています。
どうやら、百姓がしていることは、実は自己都合の余計なおせっかいだけ。
農薬散布、化学肥料、ハウス、F1種の交配。すべてそうです。
どれも、野菜たちにしてみれば、望んでいることじゃない。
もしかしたら、ただ「ありがた迷惑」なだけの話かもしれない。
おそらく、彼らにとっては、どれもが大なり小なりのストレスになっている気がしてならない。
要するに、ただただ自然からのおこぼれを頂戴しているのが百姓の仕事。
本書では「贈与」と言っていましたが、つまり農業は結局のところ「自然からの頂き物」で成立しているという感覚がなければ、はじまらない。
したがって、生産性だなんだという、工業化社会のルールは、どうしても相容れなくなってきます。
相手から何かいただくことに対して、それを最大化しようとか、コストパフォーマンスしようと考えること自体が、土台失礼な話です。
食料というのは、工業製品とは、根本的に違います。
基本的に、人々に、食べるものが行き渡れば、それ以上無駄に作る必要はないものです。
それなのに、必要以上に作っては、無駄に捨てている。
その一方で、今日食べるパンにさえ事欠く人たちがいる。
どうにも、人間様のやっていることはトンチンカンです。
どんなにたくさん作っても、食べるものは、いずれは食べられなくなって、捨てるしかない。
それならば、そんな無駄な生産性に手間暇かけるよりも、むしろ、百姓たちがしなければいけないことは、それが持続していく環境を整えて、次の世代に渡すこと。
こちらの方が、人類全体にとって、はるかに大切な役割です。
「自然からの贈与は、それ自体は拡大再生産させることができない。ただし、それは粛々と繰り返され循環されていく。それを大切にしながらやりくりしていくのが農業。」
要するに、そういうことです。
縄文時代は、1万年続きました。
なぜ1万年続いたのかと考えれば、おそらく縄文時代の人たちは、この農業を循環させるというサイクルを、肌でわかっていたからだと思います。
自分たちに、必要な分だけ収穫できたら、あとは自然に戻し、そして、その収穫に対して感謝の意を表す。
これが、百姓の当たり前の感覚だったはずです。
彼らには、経済成長しようなんて気は、サラサラなかった。
自然から贈与されている感覚をあたりまえに持っていたからです。
自然に対して謙虚だったんですね。
というよりも、もしかしたら、自然という概念そのものがなかったかもしれない。
自分たち人間も、農作物と同じ自然の一部。
だとしたら、人と自然を分けて考えることすらしなかったかもしれません。
だから、一万年も続いた。
しかし、文明が芽生え、人間に妙な優越意識が芽生えて、自然よりも自分たちは1つ上の存在などと思い始めると、人間たちには、邪な欲望が生まれてきて、自然を食い物にし始めます。
その結果、どうなったか。
ローマの周辺の山は、丸裸にされて、結果ローマ文明は滅びました。
目の前の栄華にどっぷり浸かって、それを持続しようという努力を怠った結果です。
世界中の文明というものは、多かれ少なかれ、それで滅びます。
欲望に対するコントロールが効かなくなった末路です。
それに比べると、これだけ豊富な緑が残されている日本です。
そのあたりは、諸外国に比べると、まがりなりにも文明を持った国としては、人々が、自然に対して、まだ正気だったかもしれません。
定年退職して3ヶ月、就農活動をはじめてから、同じ志を持つ若者とたちとも触れ合うようになりました。
人口統計から見れば、農村から、都会へと向かう若者たちの数は、相変わらず多いことは事実です。
しかし、反対に生産性のトンカチで頭を叩かれ、コストパフォーマンスのロープで縛り付けられるような都会の労働に希望を持てなくなった若者が、その「暮らしの場」として、田舎での農業が、確実にその選択肢のひとつになってきているということもまた事実のような気がします。
彼らは、普通に算盤を弾いて、彼らなりの損得勘定から、田舎での農業を選択しようとしています。
安倍政権が、これだけ、都会での若者たちの労働環境をメチャクチャにしてくれましたから、ある意味当たり前といえば当たり前のこと。
しかし、30代40代の就農なんてことは、恥ずかしながら、僕の若い頃には、考えもしなかったことです。
おそらくまだ、数字としては現れてきていませんが、若者たちの、帰農は、彼らの自発的な選択として、徐々にトレンドになりはじめていると本書は言います。
ある意味では、僕らの世代よりも、彼らの方がはるかに正気かもしれません。
それくらい、若者たちにとって、都会は生きづらいところになっている。
田舎暮らしの希望の老人としては、そんな若者たちとも一緒に、そして、地元の爺さん、婆さんたちともコミュニケーションしながら、生産性や経済成長とは、ちょっと距離を置いたところで、農業を生業とした、田舎暮らしができればしめたものです。