WHO(世界保健機関)が定義するところの健康寿命とは「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」とのこと。
いまや、世界一の長寿国となった日本。
男子の平均年齢は、80歳。
女子の平均年齢は、87歳だそうです。
では、健康寿命はどうか。
けっこうビックリしてしまうのですが、なんと男子は72歳。
女子では、75歳。
これが我が国の平均とのこと。
つまり、男子は寿命を迎えるまでの8年間、女子では12年間が、みんな寝たきりになるわけです。
我が父親は、74歳で亡くなりましたが、確かにきっちり7年間、寝たきりの介護老人として晩年を過ごしました。
僕は今年で61歳ですから、ちょうど戦後の頃の日本の平均寿命。
だとすれば、この後の人生は付録みたいなもの。
そう割り切って、会社を辞めて百姓修行を始めたのも、出来れば健康的に余生を送りたいという思いがあったからです。
朝畑に行って普通に労働して、自宅に戻って、縁側で昼寝をしているうちにポックリなんていうのが僕の臨終の理想ですが、果たしてそう予定通りにいってくれるか。
普通に考えれば、最晩年は、やはり病院のお世話になるのかもしれません。
ましてや、家族を持たない身です。
その可能性は高い。
僕が今までで、病院に入院した経験は一度だけです。
そのときは、1週間だけでしたが、それでもかなり気がめいったのはよく覚えています。
病院にいるだけで、病気になってしまっている様な気分でしたね。
その後は、父親の介護入院で、病院には7年間通いました。
思うように動かなくなった手足を引きずりながらも、そこでどういう日々を送るか。
父親の介護をしながらも、そんなことは、うすぼんやりと考えてはいました。
さあ、そんな自分もいよいよ老境です。
いつかは訪れるかもしれない寝たきりの日々。
体が動かなくなった最晩年をどう過ごすか。
さて、今回も老人の嗜みとして、無料の青空文庫から、こんな一冊を引っ張り出してきました。
明治の歌人であり俳人でもあった、正岡子規の「病状六尺」です。
これは、以前から気になっていた一冊でした。
彼は、当時は不治の病とされれていた結核で、亡くなります。
1902年のこと。
享年34歳。
喀血をしてから亡くなるまでのおよそ7年間、彼はわずか六尺四方の部屋で自宅療養しながら過ごします。
激痛を和らげるために、日々打つモルヒネ。
正岡子規は死と向かい合いながらも、自分の人生をどう全うしたのか。
座ることもままならない身で、彼は何を生きる糧としたのか。
まず、すごいなと思うのは、彼は自分の死から目を背けずに、真正面から受け入れているということ。
とにかく一切ジタバタしていない。
冷静すぎるくらい冷静です。
彼はこう言っています。
「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。」
死んでいく我が身を面白がろうというのは、やはり尋常ではない精神力です。
達観か。諦めか。それとも、強がりか。
彼は、病床の身でありながら、俳句雑誌「ホトトギス」を創刊します。
ホトトギスといえば、中国の故事にある有名な「鳴いて血を吐くホトトギス」
つまり彼は、喀血した自分のイメージを、そのまま雑誌の名前に重ね合わせているわけです。
といいますか、そもそも、「ほととぎす」の漢字表記が「子規」。
ブログを打ち込みながら気がつきました。
つまり、彼は初めから自分の名前ごと、死と向き合ってたいたということ。
この不治の病と向かい合うことを、はじめから自分の文学の素材としようと決めていたわけですね。
文学者として、恐ろしく肝が座っていたことだけは、間違いない。
病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。
本書の書き出しです。
自分には、この小さな部屋と、そこから見える小さな庭が、世界の全てだが、それだけで十分。
彼はそういいます。
そして実際に、病と向かい合いながら、その暮らしの中で綴られた文章が、「病状六尺」や「仰臥漫録」として、時を超えて、今でもこうして読み継がれて、彼の業績として、僕の手元にある。
ちょっと、その境遇を自分に置き換えてみます。
僕も、ブログはこうやって、日々書いてはいますが、ではそれが果たして文学になるか。
無理でしょうね。
おそらくは、大仰に自分不幸を嘆いて、同情を確信犯的に集めようとするか。
自暴自棄になって、やたら攻撃的になるか。
あるいは、茫然自失となって、支離滅裂な文章になるか。
いずれにせよ、自己陶酔型の、感情的で、感傷的な文章になるような気がします。
それは、やはり文章としては二流。文学とは程遠いものでしょう。
まだ30代だった正岡子規が、自分の余命を知りながらも持ち続けた、自分の運命を冷徹に見つめる視線。
やはり、これこそが、本書「病状六尺」の魅力であり、真骨頂でもあります。
では、病床から起き上がれない身で、いったい何が出来るのか。
自分の老後のために、ここはしっかりお勉強させていただきました。
まず出来ることは、自分の弟子たちへの指導ですね。
高浜虚子・河東碧梧桐・伊藤左千夫・長塚節。
名前は、みんな聞いたことがあります。
いずれも、のちの日本の文学界に、その名を残した面々です。
彼の病床の傍には、いつでも硯と筆が置いてありました。
体の調子の良いときは、もちろん自ら筆を取りますが、ままならぬときは口述筆記。
もちろん、激痛で寝返りも打てない状態の師匠の枕元で、彼の言葉を聞き取って残した、彼らの功績があったからこそ、正岡子規の業績は後世に残ったわけです。
彼らは、子規の枕元によく書物を届けています。
特に江戸時代の画集ですね。
彼は、その一つずつを丁寧に鑑賞し、評論しています。
綿密で丁寧な作品よりも、デフォルメされた簡素なスケッチの方がお好みのと見えます。
美的修飾は贅沢の謂に非ず、破袴弊衣も配合と調和によりては縮緬よりも友禅よりも美なる事あり。
なんておっしゃってますから、彼は絵に限らずシンプルなものがお好きだったご様子。
評論といえば、本業でもあった俳句や短歌にも、するどく切り込んでいます。
こちらは、特に与謝野蕪村を評価していたようです。
基本的には、江戸時代に形式化してしまった俳句に物申すと言うのが彼のスタンス。
俳句は、もっと自由でいいだろうというわけです。
もちろん彼自身の作品もふんだんに登場。
正岡子規の俳句といえば、真っ先に出てくるのが、誰もがご存知のこの句。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
この句は、彼の学生時代の同僚であった夏目漱石の俳句への返句だったとのこと。
夏目漱石が詠んだ一句がこちら。
鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺
本書では、この句に対する評論に対して、一言という文章でした。
漱石との親交は深く、子規は、漱石の下宿で、療養生活を過ごしていた時期もあったようです。
ちなみに、明治の文豪森鴎外は、彼が従軍した日清戦争での上官。
日本の伝統文化への関心も、随所に見られます。
歌舞伎は出てきませんでしたが、能や狂言はお気に入りだっようです。。
彼の病床での関心は、広く世相にも及びます。
枕元には、常に新聞雑誌はあったようですから、そこからネタは収集。
当時はまだ登場したばかりの、活動写真などにも言及。
もし彼のもとに、今のようなSNSがあったとしたら、おそらく、
かなりのヘビーユーザーになっていたのではないでしょうか。
彼の元には、お見舞いの品が、友人たちから数多く送られてきます。
曼陀羅、河豚提灯、丼鉢、呼び鈴などなど。
それらについても、丁寧に言及していますね。
特に、写真双眼鏡。
これは今で言えば、3Dのようなもので、写真が立体的に見えると、子供のように面白がっています。
面白かったのは、「渡辺さんのお嬢さん」の件。
彼に是非会いたいというお嬢さんを、友人が連れて来るわけです。
努めて冷静にしようとはしているのですが、心中穏やかではない。
その動揺が明らかに文章に滲み出ています。
これにはニンマリ。
なるほど、なるほど。
確かに、いろいろなことを文章にしようという意欲さえあれば、わずか六尺の病床でも、ネタに事欠くことはなさそうです。
そして、持つべきは、知的好奇心。
これは確かに、体から自由が奪われたとしても、生きている限り持ち続けていられそうです。
正岡子規は、まさにそれを、自分の生きるモチベーションにしていたわけです。
例えば、この「病状六尺」は、無料でダウンロードできる「青空文庫」から仕入れたもの。
もし、自分が寝たきりになっても、そうなればそうなったで、このような古典的名著を、一冊一冊拝読して、拙い感想を文章にする。
これなら、iPad ひとつあれば、お金もかけずに楽しめそうです。
僕には、絵を鑑賞して、吟味評論する能力はありませんが、もともと子供の頃は、漫画家志望でしたので、イラストぐらいなら描いて楽しめる。
これも、手と指さえ動けば、寝たきりでも続行可能。
もちろん、大好きな映画も、目と耳さえ無事なら、ゆっくり見れる。
そう考えてみると、近い将来には確実に訪れる「寝たきりライフ」も、それほど絶望的になることはなさそうです。
死ぬまで、ジワリジワリと自分の体を蝕んでいく結核の激痛と対峙した正岡子規。
痛いのは嫌ですが、僕が晩年を迎える頃には、鎮痛剤も、明治の頃よりは、進歩しているはず。
そこは、何年か先の医療にお任せしますので、どうかよろしく。
痛いのだけは、なんとかして下さいませ。
幸いかな、家族もおりませんので、もしも、この最後の「楽しみ」まで奪われざるを得ないような状況になりましたら、どうか無駄な延命だけは避けていただけますように。
もし、その時すでに、こちらが自分の意思を伝えられないような状況になっておりましたら、そのあたりの意を汲み取っていただければ幸いです。
ちなみに、正岡子規が、長嶋茂雄や王貞治などと並んで「野球殿堂」入りしているのは有名な話です。
野球が日本に入ってきた頃の、熱心なプレーヤーだったそうです。
ポジションは捕手。
実は、「野球」という言葉は、彼の発明によるもの。
彼の幼名が「升(のぼる)」。
これに、「野球」という漢字を当てて、「のボール」と読ませ、自分の雅号に用いたのが最初。
のちに正式にベースボールの和訳として用いられるようになった4年前の話。
彼のイラストは、彼の好みを汲んで、シンプルに描いてみました。
描きながらおもったこと。
もしも、彼の短い生涯を、映像化する企画があれば、その主役に是非お勧めしたい方がいます。
漫才コンビ「バイきんぐ」の小峠英二。
残された正岡子規の写真を見ていると、この人ちょっと他人とは思えないんだよな。