またしても、技ありの叙述トリックにまんまとやられてしまいました。
ミステリーは、作家に驚かされてなんぼのエンタメと思っていますので、それでなんの文句はないのですが、悔しいというよりも少々情けなかったというのが本音です。
情けないというのは、もちろんこちら責任で、ラストのどんでん返しが、一読ではまったく理解できなかった故のこと。お恥ずかしい限りです。
「ん? 何が起こった?」
本作のどんでん返しを食らった瞬間はそんな感じでした。
まずい。どこかで肝心なところを完全に読み落としている。
これでは、さすがに読書感想文は書けません。
冷や汗タラりで、すぐさま再読開始。
今度は、慎重に慎重に読み返しましたね。
そして判明したことは、作者の秀逸なミスリードとプロット構成の妙。
仕掛けられた叙述トリックに反則はないものかも精査しました。
しかし、そのあたりは憎いほどに完璧で、ロジックの破綻は皆無。
「伏線の狙撃手」の異名は伊達ではありませんでした。
物語は、大学生の住吉初羽馬が、Twitterで見つけたあるツイートから始まります。
このツイートは、「たいすけ@taisuke0701」というアカウントから投稿され、若い女性の死体と思われる画像とともに「血の海地獄」というコメントが付いています。
これはガチでヤバいと直感した初羽馬は、このツイートをすかさずリツイート。
それまではごく少数の閲覧者しかいなかったツイートは、瞬く間にネット上で拡散されはじめます。
ツイートが拡散されると、すぐに山縣泰介という人物がこのアカウントの持ち主であることが判明。
泰介は大手ハウスメーカーの営業部長で、インターネットリテラシーの低い50代の男性です。
彼はツイッターの仕組みすら知らず、自分のアカウントがなりすまされていることにも気付いていません。
しかし、公園で実際に若い女性の死体が発見されると、ネットはたちまち炎上。
泰介は殺人犯として、たちまちネット上で「時の人」になってしまいます。
「俺ではない炎上」に泰介はパニックになります。
実名と写真がネット上に拡散され、職場や自宅から逃げることを余儀なくされる泰介。
事件はSNSを通じて急速に広がり、泰介は無実を主張しながらも必死の逃亡を続けることになります。
間違われた主人公、巻き込まれた主人公というのは、サスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックが最も好んだテーマです。
「間違われた男」「知りすぎた男」「北北西に進路をとれ」。
このタイプの名作は、彼の作品では枚挙にいとまがありません。
本作においても、泰介のパートは、なかなかサスペンスフルです。
ヒッチコックの時代には、まだSNSはありませんでしたが、もしも彼が生きていたら、絶対にこの題材を素通りしたとは思えません。
逃げていた泰介が、やがて自分の手で犯人を捕まえると前向きになるのも、ヒッチコック・パターンを踏襲した展開といえるでしょう。
しかし、ヒッチコックならば、お得意の映像テクニックで、主人公の運命を手に汗握るサスペンス映画にしてくれるでしょうが、「ロジック・モンスター」と呼ばれる作者は、本格派推理作家、文章の専門家です。主人公のサスペンスだけを描くだけの冒険活劇に甘んじることはありませんでした。
作者は思いもよらない方向からのどんでん返しを用意していましたね。
これは、恥ずかしながら2回読み返してやっと理解し脱帽した次第。
このトリックは、ある意味では、綾辻行人氏の「十角館の殺人」のあのサプライズを意識したものだったという思いが頭をよぎりました。
本作は、主人公泰介のパートをメインに、複数の主要登場人物の視線から、物語が多重構造的に構築されています。
この「視線」というのが、ミステリーの中では案外クセモノ。
いわんや、叙述トリックともなればなおさらです。
いったいそういっているあなたはどこの誰?
基本的に、叙述トリックは小説でしか成立しないトリックといわれています。
なぜか?
それは、映像にしてしまえば、そのトリックが一目瞭然になるからです。
僕は自分自身、映画マニアということもあって、ミステリー小説を読む時には、物語を脳内シアターで、可能な限り映像化しながら読み進める習慣があります。
時には、その文章をそのままプロンプトにして、AI に画像を生成してもらいながら、イメージを膨らませたりしています。
つまり、一度脳内でシーンが映像化されてしまうと、後になってそのイメージをひっくり返すのは、なかなか難しいということ。物語の展開に自分で作りこんだイメージがついていけなくなるんですね。
僕が、叙述トリックに決定的に弱い理由はこのせいだと自己分析しています。
歌野晶午氏の「葉桜の季節に君を想うということ」や、乾くるみ氏の「イニシエーション・ラブ」も、読み終えた瞬間、恥ずかしながらほとんどパニック状態でした。
いったい自分はどこから作者の術中にハマっていたのか。
再読の際は、そればかりに集中していました。
それは読み始めてまもなく判明。
思わず声が出てしまいました。
それは、とある登場人物のパートの最初の一行。
これぞミスリードのお手本。
このトラップにまんまと引っかかった僕は、結局最後までそこから抜け出せませんでした。
真相解明パートに入っても尚、最後まで首をひねるばかりでしたので。
これから本書を読まれる方は、是非その一行に留意されたし。
浅倉秋成恐るべし。
さて本作は、その秀逸なトリックと共に、SNS社会の危うさを、いろいろな角度から浮き彫りにしていきます。
本作には、登場人物たちのパートと並行して、ネット住民たちのツイートが頻繁に登場します。
その「匿名性」が生む責任感の希薄化を見事に表現しています。
影の攻撃者たちの匿名アカウントによる無責任な批判やデマは、連鎖的に拡散されていきます。
他者への攻撃は「ゲーム感覚」で増殖していきます。
匿名という意識が、倫理的な歯止めを外し、モラル・ハザードが増殖していきます。
そして加害者側に「正義の執行」という自己正当化が働く心理が、「私設警察」というかたちで表現されて、これがなかなか怖い。
SNSでは事実確認以前に感情的な反応が先行し、「#炎上」がトレンド入りする事態が発生。
斎藤兵庫県知事の件にしても、中居正広の性加害問題にしてもこの傾向は顕著です。
作中で主人公が偽アカウントによる犯行嫌疑をかけられる展開は、デマが「一時的な真実」として社会に受け入れられる危険性を見事に可視化しています。
もうひとつ、本作において、SNSの恐怖として具体的に描かれているのはアカウントの乗っ取りです。
主人公が「自分ではない誰か」に成りすまされる設定は、恐怖以外の何物でもありません。
そしてその脆弱性が、デジタル社会における自己の不安定性そのものを暗示しているからこそ、こうしたたミステリーが成立するわけです。
本作は、ネット社会の裏側に潜む先鋭的な排除のシステムを具現化した寓話としても意味がある作品かもしれません。
ストレスを抱え暴力的になったたネット住民は、そのはけ口を求めて、常に生贄を捜しているというわけです。
作者は、本作のすべて登場人物に、意識的に、どこかの段階で同じセリフを言わせています。
主人公、その家族、警察関係者、犯人、すべてにです。
そのセリフはこれ。
「少なくとも自分は悪くない。」
誰もが責任を否定する姿は、現代社会における「自己防衛メカニズム」の普遍性を強調しています。
匿名性の高いSNSでは、謝ったら負けという文化がはびこります。
常に謝らせる側にいるための鎧が「自分は悪くない」という理論武装というわけです。
全員が「悪くない」と主張することは、逆に真の責任の所在が曖昧になることを意味します。
問題はなにひとつ解決されないまま、炎上だけがイベント化するわけです。
本作の登場人物がみな「自分は悪くない」と信じ込む様子は、客観的事実よりも「主観的な正義」が優先される現代の情報社会を鋭く風刺しています。
責任の否定が連鎖することで、作品内には「悪」が存在しないというパラドックスを生むことになります。つまり、それゆえ倫理的な基準そのものが崩壊する過程を暗示しているわけです。
登場人物たちの一見滑稽なまでの自己正当化の連鎖が、次第に不気味な狂気として浮かび上がることで、作品に「ブラックユーモア」の奥行きも与えていきます。
これを徹底的に描くことで、主人公のラストの一言がカタルシスを呼ぶわけです。
SNSにおける様々な問題を、ミステリーという形で炙り出した本作は、まさに今が旬の近現代エンターテイメント。
このトリックを一読で理解できなかったのは、ミステリー・ファンとしては不覚でしたが、これは作者のプロット構築があまりによく出来ていたから。
「少なくとも僕は悪くない」
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