本作は、染井為人による同名ベストセラー小説を原作とし、藤井道人監督がメガホンを取った2024年公開のサスペンス映画。
主演は横浜流星で、他にも吉岡里帆、森本慎太郎、山田杏奈、山田孝之といった豪華キャストが集結しています。
NETFLIX で鑑賞可能。
あらすじです。
日本中を震撼させた凶悪な殺人事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた主人公・鏑木慶一(横浜流星)。
彼は脱走し、343日間にわたって潜伏・逃走を続けます。
彼はなぜ、収監されていた刑務所から脱獄したのか。
映画は、この動機をかなりラスト近くまで引っ張るのですが、普通に考えればこれは誰にでも判ってしまいそうです。
どうやら、鏑木はこの殺人事件の犯人ではなさそうだ。
いや待て。そんなことは・・・。
これはどこかで、ひっくり返るかなと思って見ていたのですが、結局主人公は無罪でした。
まずはネタバレご容赦。冒頭の予想通りの結末になりますので、その辺はご勘弁を。
つまり、本作のメインテーマは、謎解きミステリーではなく、冤罪そのものということです。
ミステリー映画から、鑑賞モードを犯罪ヒューマンドラマに切り替える必要がありました。
鏑木は逃亡先で出会う人々ごとに“まったく別人”のような姿を見せ、5つの顔を使い分けながら日本各地を転々とします。
チラリと頭をよぎるのは、今村正平監督の「復讐するは我にあり」。
こちらは悪事の限りを尽くして逃亡する連続殺人犯の物語でした。
見るものの感情移入を拒否する、徹頭徹尾ドライな演出が冴えわたった演出でした。
別人に成りすまして逃亡する全国指名手配犯というと、地下鉄サリン事件で日本を震撼させたオウム真理教の幹部たちもチラリと脳裏をよぎります。
リサーチしてみると、すべての指名手配犯は現在ではすべて逮捕され刑も執行されているそうです。
これを題材にした映画もあったようですが、それは見ていません。
海の向こうでは、1963年から放映された「逃亡者」という人気テレビドラマがありました。
主演はデビッド・ジャンセン。
妻殺しの罪を着せられた主人公が、逃亡しながら、行く先々でいろいろな人と絡んでいくという展開は、本作に似ています。
1993年には、ハリソン・フォード主演で映画化もされています。
本作で、逃亡犯・鏑木を追う刑事・又貫征吾を演じるのは山田孝之。
又貫は、鏑木と接触した沙耶香(吉岡里帆)、和也(森本慎太郎)、舞(山田杏奈)らから事情聴取を行いますが、鏑木と接触した彼らは、揃って鏑木がこの殺人事件の犯人ではないことを信じるようになっていきます。
このあたりから、ラストの展開は予想できてしまうのですが、それをひっくり返すような「どんでん返し」ミステリー展開は残念ながらなし。
それがあるなら、もちろんミステリー映画のネタバレご法度のルールを遵守するつもりでいましたが、最後は関係者全員を法廷に揃えて、彼の冤罪が晴らされるというドラマチックな展開でしたので、その必要はなしと判断。
映画は、この感動シーンがクライマックスですから、お楽しみあれ。
ちなみに、原作小説では、鏑木は警察に射殺されてしまいます。
そして、その後の関係者の再審請求により、法廷で無罪を勝ち取るという展開。
しかし、映画の方は、撃たれはしますが、一命はとりとめ裁判に出廷するというように脚色されています。
そして鏑木が法廷で、無罪を言い渡されるという感動のシーンをクライマックスということになります。
その方が、クライマックスのカタルシスがあるという判断でしょう。
但し、これにより、本作はミステリー映画というよりは、犯罪ヒューマン・ドラマになってしまったことは否めません。
ミステリー・ファンとしては、原作版のラストを見たかった気もします。
小説は内面描写や多視点構成が可能なため、鏑木の逃亡劇を淡々と、また彼と関わる人々の視点を通して多面的に描いています。
物語の時間軸も自在に行き来し、逃亡生活の細部や心理描写、社会の理不尽さをじっくりと掘り下げることができま
す。
しかし、映画は限られた上映時間内でストーリーをまとめる必要があり、テンポの良い展開や視覚的なスリル、主役の存在感が重視されます。
そのため、時系列を整理し、警察側の視点やアクション性を強調したり、逃亡劇の緊迫感を前面に押し出す演出が取られてるのはやむを得ないところ。
原作の主題である「冤罪の理不尽さ」や「社会の闇」を強調したいのなら、鏑木が逃亡の末に命を落とすという悲劇的な結末を描いた方が、テーマ性は強調されたかもしれません。
しかし、エンタメ映画は観客のカタルシスや希望的エンディングを重視するもの。
大衆的な娯楽作品であることと、観客の感情移入・満足度を考慮するなら、こういう結末ということでしょう。
小説と映画の決定的違いは視点そのものにあります。
小説は、鏑木と関わる複数の人物視点で進行し、彼の「正体」を他者の目を通して浮かび上がらせます。
それゆえに、タイトルの「正体」が効いてくるわけです。
しかし、映画では、完全に主役(鏑木)に焦点を絞り、彼の行動や心理、警察との対決を中心に据えることで、観客を物語世界に強く引き込むという脚色をしています。
映画をエモーショナルにするために、あえて、「正体」を暴くというミステリー要素は捨てたということかもしれません。ミステリー・ファンとしてはやや残念ですが、エモーショナルなラストになったことは事実です。
小説と映画で鏑木の逃走劇に違いが生まれた理由は、メディアごとの表現手法や制約、観客への訴求ポイント、物語の主題や結末へのアプローチの違いにあるのは明白。
映画版の結末は、原作読者が「こうであってほしかった」と願うような「救い」を加えるようにあえて脚色されています。
これが「よくぞ意を汲んだり」であったか「余計なお世話」だったかは、見る人によって意見は違うかもしれません。
また、映画では、警察側の又貫刑事が内部告発し、組織の過ちを正そうとする姿も描かれています。
これも映画のオリジナル。
これは「警察も内部から変われる可能性がある」という希望を示すための映画オリジナルの展開であり、社会全体へのメッセージ性を高めています。
最近の冤罪事件といえば、1966年に発生した袴田事件が、2024年に、証拠捏造と違法捜査により無罪確定。
2020年に発生した大河原化工機事件の冤罪も確定。警視庁公安部の違法捜査が認定されています。
我が国の司法に、冤罪を生みやすい構造的欠陥枷あることは、次第に白日の下に曝け出されてきているのが現状であること国際的にも認知されつつある我が国の恥部。
冤罪はどうして生まれてしまうのか。そして、その犯人は誰なのか。
その「正体」を暴き出すことを映画のメッセージにしたいのなら、もう少し違う脚本があるような気はします。
.