「タケダアワー」という言葉自体は知りませんでしたが、この本の背表紙を見てピンとは来ました。
もしやと思って、手にとって表紙を見たら、やはりそうでした。
「タケダアワー」は、日曜日の午後7時から、7時30分のTBS枠。
僕の世代が子供だった頃には、お約束のようにテレビの前に座って、かじりつくように見ていたテレビ枠です。
オーブニングは決まって、武田薬品工業のロゴのある本社工場の空撮に被さる「タケダタケダタケダ〜」の男女混成コーラス。
テレビの前にいるほとんどの子供は、アリナミンを飲んだことはなかったはずですが(ハイシーなら飲んでいたかも)、「武田薬品」の名前は、しっかりと刷り込まれていたはずです。
本書は、「タケダアワー」の製作に携わった人たちへのインタビューで構成された裏方物語。
興味津々です。
「タケダアワー」は、1958年から、17年間続いたテレビのゴールデン枠。
スタートは、僕が生まれる前年の話。
ですから、初期の記憶は当然ほとんどありません。
古い写真を見ると、僕が3歳の時の写真に、お茶の間の白黒テレビが映っていましたから、物心がついた頃には、すでにテレビがあった世代です。
タケダアワーのスタートは、「月光仮面」。
最初は、午後6時からの放送だったものが、途中から午後7時に変更。
以後、「タケダアワー」として、この時間帯に定着したようです。
もちろん、「月光仮面」の記憶は、確かにあります。
♪
どーこの誰かは知らないけれど 誰もがみーん知っている
この主題歌「月光仮面は誰でしょう」も、ちゃんと覚えています。
しかし、テレビのオンエアを見た記憶は、再放送も含めまるでありません。
「月光仮面」にハマっていた子供は、僕よりも、もう少し上の、団塊の世代後期の人たちのはずです。
僕の記憶にある「月光仮面」は、メンコですね。
当時の子供達の間で、大流行していたのがメンコ。
いろいろなメンコがあるのですが、月光仮面のデザインのメンコが、当時はかなり貴重で、持っている子供はまず実戦では使わず(負けると取られてしまう)、大切なお宝として保存していました。
それから、マンガですね。
オンエアとリアルタイムで、桑田次郎の漫画が、貸本になっていたようですが、僕の記憶にあるのは、小学館の学年誌に連載されていたもの。
なにせ、家業が本屋でしたから、その辺りは恵まれていました。
当時住んでいた大田区の平和島あたりは、まだ海岸線が今よりもグッと手前でしたので、磯の香りのする堤防に立ち、風呂敷をマントがわりにして、よく「月光仮面ごっこ」をした覚えはあります。
放送はすでに終了していましたが、「月光仮面」は、その後の子供達にも、ヒーローのアイコンとして、しっかりと認識されていました。
「月光仮面」終了後の「タケダアワー」は、「泣き笑いさくらんぼ劇団」「豹(ジャガー)の眼」「夕やけ天使」と続きますが、これはまるで記憶なし。
次に来たのが「隠密剣士」。
始まったのが、1962年ですから、僕が3歳の時。
これは、オンエアで見た記憶も、微かにあります。
というのも、当時の子供の遊びで定番だったのが、「忍者ごっこ」。
ほぼ同時期に、横山光輝氏の漫画「伊賀の影丸」が、「少年サンデー」に連載されていましたし、「忍者部隊月光」も、フジテレビでオンエアされていました。
当初は、「隠密剣士」には、忍者が登場していなかったようですが、子供達のこのブームを察知して、途中から、忍者達との対決が物語のメインになっていったとのこと。
「隠密剣士」の主役は、大瀬康一でしたが、彼よりも印象に残っているのは、霧の遁兵衛を演じた牧冬吉。
おそらくこれは、「仮面の忍者赤影」で、大凧を操る白影を演じていた彼の印象とダブっているかもしれません。
「隠密剣士」は、足掛け3年間に渡り、128話も作られました。
子供達だけでなく、大人も楽しめる「タケダアワー」を定着させた功績は大です。
この後、主役を変えて、「新隠密剣士」が製作されますが、こちらの記憶はまるでなし。
さてさて。
いよいよ、この次に登場するのが、「ウルトラQ」です。
ここまでの、「タケダアワー」番組は、宣弘社プロダクションの製作でしたが、ここから製作を担当するのが、お馴染みの円谷プロ。
円谷英二の息子さんが、TBS勤務だったことが縁だったようです。
とにかく、それまでは、映画館に行って見るしかなかった怪獣が、自宅のテレビで、毎週のように見れるというのは、当時の子供達にとっては画期的なことでした。
全27話は、1話も漏らさず見ました。
もちろん、月曜日の学校は、その話題で持ちきりです。
まだ放送は、モノクロでしたが、「ウルトラQ」のテイストには、むしろそちらの方が合っていましたね。
怪獣ブームは、この番組の登場で、間違いなく一気に加速しました。
デパートの玩具コーナーに行けば、怪獣のソフビがずらりと並ぶようになりましたし、「怪獣図鑑」みたいな本が、たくさん本屋にも並びました。
ソフビを揃えるほどお小遣いはもらっていませんでしたが、もちろん、本屋の息子ですから、本の方は発売されれば、全てチェック。
放送が終了する頃には、物語のタイトルと怪獣の名前、身長くらいまでは全部暗記していました。
これは、ずっと後になってからでしたが、「ウルトラQ」を思い出すたびに、当時の作り手達は、子供達を舐めていなかったとしみじみ思ったものです。
それは、こちらが大人になればなるほど痛感したこと。
それくらい、一話一話の、物語のクゥオリティはハイレベルでした。
タイトルの付け方も秀逸。
例えば、冷凍怪獣ペギラ登場の回。
今ならさしづめ「絶対零度の恐怖! 冷凍怪獣東京に出現!」みたいなことになりそうですが、「ウルトラQ」でのタイトルは、「ペギラが来た!」そして、2回目の登場時は「東京氷河期」。
そのまま、映画にしてもいいくらいのセンスです。
後の、怪獣特撮ものと比較すると、「タケダアワー」時代の怪獣ものは、やはり、その世代のご贔屓も多分にあるのを承知で言わせて貰えば、ワンランク格上だったような気がしていました。
しかし、本書を読んで、その制作側からの裏事情を知って、こちらにそう思わせた理由が判明しました。
実は、「ウルトラQ」は、タケダアワーでの放映が決まる前から、すでにかなりの本数が製作されていたんですね。
もともと、円谷ブロでの製作コンセプトは、「アンバランス・ゾーン」。
特に子供向けを意識して作ってはおらず、物語も一般の視聴者向けに作られており、「怪奇現象」がメインで、怪獣も特に毎回登場するというわけではなかった。
製作のコンセプトには、アメリカの人気テレビシリーズ「トワイライト・ゾーン」があったようです。
しかし、これが日曜の午後7時の枠に決定した後で、円谷プロに対して「怪獣メインで」という方針が伝えられたそうです。
そして、もう一つ伝えられたのが、これから作る作品では、明るくポップな怪獣キャラも何本か入れてほしいということ。
つまり、円谷プロの製作方針を、「タケダアワー」に合わせて、変えてもらっているんですね。
シリアスな怪獣達の中に、「カネゴン」や「人工生命M1号」といったゆるキャラ怪獣が加えられ、その代わりに、怪獣の登場しない「あけてくれ!」のような暗い作品はお蔵入り(再放送時にオンエア)になったというわけです。
なるほど、なるほど。そう聞けば納得です。
確かに「1/8計画」や「悪魔っ子」のように、怪獣の登場しない物語は、シリーズのずっと後になっての放映でした。
さて、この後「タケダアワー」に登場するのが「ウルトラマン」です。
放送されたのが、1966年の7月からですから、僕は7歳。
ちょうどこの年に、我が家は、大田区の平和島から、埼玉県のさいたま市(当時は浦和市)に、引っ越してきましたから、そのあたりの記憶と一緒に、「ウルトラマン」を見ていた当時のことは、ハッキリと覚えています。
放送は、この「ウルトラマン」からカラー化。
オープニングの「タケダタケダ〜」も、カラーになっているのですが、残念ながら、我が家にカラーテレビがやってきたのは、昭和46年。
日立製のキドカラーでしたが、忘れもしない「帰って来たウルトラマン」(タケダアワーではなく金曜日の午後7時)の第一回放送日でした。
というわけで、「ウルトラマン」は、リアルタイムでは、モノクロでしか見ていないはずなのですが、おそらく、その後の再放送のでの刷り込みでしょうが、やはり、カラー映像の記憶が鮮明です。
確かに、カラータイマーは、赤く点滅していましたね。
「ウルトラマン」は、もちろん全国の子供に大好評。
これで、タケダアワーの名声は、不動のものとなります。
クラスの中でも、「怪獣博士」的な立場を獲得していましたので、学校の予習復習よりも、怪獣のネタ集めに余念がありませんでした。
さて、この次に来るのが「キャプテン・ウルトラ」
ここで、タケダアワーの製作は、円谷プロから、一時東映にバトンタッチ。
主演は、中島博久。
この人は、この後東映のヤクザ映画で悪役をやったりしていましたが、脇役でキケロ星人のジョーを演じた小林稔侍は、後に渋い脇役になって、現在も活躍中。
しかし、「キャプテン・ウルトラ」は、子供の目から見ても、そのクゥオリティにおいて「ウルトラマン」とは、比較になりませんでした。
今でも覚えているのは、最終回でシュピーゲル号がたどり着いた「宇宙の果て」が、お花畑だったこと。
これには、子供心に、「まさか」という思いがありました。
タケダアワーがしっかりと習慣化していましたので、日曜7時に、他のチャンネルに浮気することはありませんでしたが、番組の後半から話題になり出した「ウルトラセブン」への期待は徐々に高くなっていったのは覚えています。
さあそして、満を持しての「ウルトラセブン」。
製作は再び、円谷プロ。
「キャプテン・ウルトラ」放送期間中に、しっかりと製作体制を整えて、望んだ全49話。
「ウルトラマン」との差別化を図るために、「ウルトラセブン」では、敵を宇宙からの侵略者に限定。
演出も洗練され、音楽もかなりスマートになっていました。
個人的に好きだったのはジ・エコーズによる英語バージョンの「ULTRA SEVEN」。
そして、なんといってもウルトラ警備隊紅一点のアンヌ隊員。
演じていたのは、ひし美ゆり子。(当時は、菱見百合子)
この頃になると、多少こちらも色気付いて来ていたようで、「ウルトラマン」での紅一点フジ隊員を演じた桜井浩子よりも、明らかに若くて美人だったことは見逃していません。
そして、あのウルトラ警備隊の制服のフィット感。
話によれば、元々決まっていたアンヌ役の女優が突然キャンセルになったため、彼女が急遽抜擢されたらしく、すでに作られていた制服のサイズが、彼女の寸法より小さかったとのこと。
なので初めから結構ピチピチだったわけです。
それで強調されたこともありますが、アンヌ隊員が美人な上にかなりグラマーであったことは、当時の男子ファンの暗黙の了解だったと思います。
「ウルトラセブン」は、番組の後半で視聴率がだいぶ落ち込んだようですが、最終回に向けてのテコ入れで、最後はだいぶ持ち返したとのこと。
ウルトラマンのファンは、今でもかなり多いと思いますが、個人的には今でも、ウルトラセブンの方が好みですね。
さて、次に放送されたのが、「怪奇大作戦」。
これも、タケダアワーの習慣で、毎回見ていましたね。
本書によれば、この路線が、円谷プロがやりたかった本来の企画のようです。
作れば当たるけれと、製作費が嵩むのが怪獣シリーズ。
そして、怪獣がメインになれば、どうしても描ききれないのはドラマの部分。
そこで、人間のチームが、怪奇現象の謎を解明していくという物語にしたのが「怪奇大作戦」です。
夜のシーンが多く、なんだか物語も、画面も暗いなあというのが当時の印象でした。
だいぶ後になって、ソフト化したものを見直したことがありましたが、やはり作り手の気合はかなり入っていて、結構名作揃いだったことを再発見しました。
でも、あの当時の小学生だった自分に、そのクゥオリティの高さが理解できていたかどうか。
この不気味な特撮モノを、よくあの時間帯に放送することを、スポンサーが認めたもんだと関心する次第。
さて、その次が「妖術武芸帳」と来ます。
主演は、「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌を歌った佐々木功。
でもこれは、まるで記憶がありません。
おそらく、裏番組に、浮気していたかもしれません。
このシリーズは、完全にコケて、たった13話で打ち切り。
まだ契約が残っていた東映が、急遽捻り出したアイデアが、スポ根ものの「柔道一直線」。
しかし、これが意外にも面白かった。
日曜午後7時には、再びTBSにチャンネルを合わせる用になっていましたね。
「柔道一直線」にはハマりました。
怪獣ブームから、今度は一気にスポ根ブームの到来です。
同じ日曜日の7時30分からは、不二家提供枠で「サインはV」がありましたし、なんといっても土曜日には、アニメの「巨人の星」がありました。
「柔道一直線」が放映されたのは、ちょうど、小学校の高学年にあたるまるまる2年間でした。
主役の一条直也を演じたのは、桜木健一。
当時彼は、すでに20歳になっていたそうですが、完全に高校生に見えましたね。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックスみたいな感じでしょうか。
ミキッペの吉沢京子も可愛かった。
出演していた近藤正臣の、ピアノの鍵盤の上に飛び乗った「ネコ踏んじゃった」演奏シーンは語り草ですが、普通に考えれば有り得ない必殺技の数々は、子供ながらに魅力的でした。
中学に入ったら、絶対に柔道部に入るんだと心に決めていました。
念願の柔道部に入って、その試合の時は、一条直也よろしく、手を横に真一文字に広げて声を出していましたが、結構簡単に投げ飛ばされていました。
もちろん、「地獄車」も「フェニックス」も、実際には出来ませんでした。
さて、個人的に明確に覚えているタケダアワー作品は、ほぼここまでです。
この後の作品は、記憶はおぼろげ。
こちらも、中学生になってくるので、日曜の夜7時に家族団欒でテレビを見るという習慣そのものがなくなって来た頃です。
「ガッツジュン」は、スポ根ブームの後追いで、野球もの。
「シルバー仮面」は、宣弘社が製作した怪獣特撮もので、人間大のヒーローが途中から巨大になったりして、かなり迷走していましたが、裏番組で本家の円谷プロが「ミラーマン」を当ててきて、完全に失速。
次の「決めろ!フィニッシュ」では、ミュンヘン・オリンピックに照準を合わせて、再びスポ根路線に戻りますが、半年持たずに終了。
取り上げたのが、女子体操だったのがイマイチだったかも。
男子バレーボールチームのリアルタイムなアニメ・ドキュメントだった「ミュンヘンへの道」の方なら、欠かさず見てましたね。
次の「アイアンキング」は、石橋正次主演の特撮モノ。
これは、主役のテンガロンハットが、僅かに記憶にあるだけで、中身はほぼ記憶なし。
そして、ここからタケダアワー終了までの4作は、以下の通り。
「へんしん! ポンポコ玉」
「GO!GO!アイドル」
「隠密剣士 (荻島真一版)」
「隠密剣士 突っ走れ!」
この辺りになると、まちがいなく一回も見ていません。
タケダアワーは、完全に卒業していました。
ということで、自分の子供時代とほぼシンクロしていたのが、日曜7時の「タケダアワー」でした。
そして、こちらの少年期が終わるのと一緒に、タケダアワーの視聴率も下降線をたどっていって終了を迎えたというのも、なんだか感慨深い話し。
あの頃に、子供だったものとしては、やはりタケダアワーで放送された番組からの影響は大きかったと言わざるを得ません。
しかし、この本を読むと、製作側の方こそ、番組を見た子供達の反応に大きく影響されていたこともわかります。
ブームというものは、果たして誰が作るのか?
送り手が仕掛けて、初めて火がつくものか?
時代の空気の中から自然発生するものか?
それとも、事故のような偶然か?
当たった番組と、そうでない番組の差は何か?
タケダアワーの作品を見ても、時代の波を正確に読んでヒットしたもの。
一か八かで作ったものが、ブームに火をつけたもの。
ブームの終わりを読み間違えてコケたもの。
製作意図が伝わりきれずにコケたもの。
作られた番組の運命は様々ですが、とにかく視聴率だけは、どの時代においても、常に残酷なくらい正直のようです。
いずれにしても、視聴者の一人として、タケダアワーには、大変お世話になりましたと、この歳になって、改めて御礼申しあげる次第。
自社製品の顧客のメインではないはずの子供たちに向けられたエンターテイメント番組であるにもかかわらず、どれだけ迷走しようと、製作には一切口出しせず、黙ってスポンサーであり続けてくれた武田薬品工業の、懐の深さの賜物だったと言ってよいかもしれません。
まずは、このスポンサーの鑑に、心より敬意を表したいと思います。
ありがとうございました。
ところで、アリナミンてまだ売ってましたっけ?