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さて、1973年になりますと、中学2年生になっています。
この年には、「カラオケ歌謡曲記憶力テスト」をやる上で、どうしても外せない出来事があります。
それは、ラジカセの購入ですね。
前年のギターは、なんとか小遣いで手に入れられましたが、ラジカセとなるとさすがにそうもいきません。
これはどうしても欲しかったので、友人のほとんどが、これを持っていることを、トクトクと説明して、なんとか両親を口説き落としました。
父親と一緒に、ラジカセを購入しに、秋葉原まで行った日のことはハッキリと覚えています。
結局、あらかじめ相談していた予算以上のラジカセを、店員を老獪に口説いて、値切らせる父親が逞しく見えたものでした。
手に入れたラジカセは、今でもハッキリと覚えています。
AIWA TPR-205
ワイヤレスマイク付きで、これは当時の友人の誰も持っていない機種だったので嬉しかったですね。
さて、この愛機をゲットしてからの、ミュージック・ライフはガラリと変わりました。
モノラルではありましたが、これでラジオ番組が録音できるようになったのは大きかったと思います。
まず録音を始めたのは、ラジオの深夜放送。
それまでは、眠い目を擦って、ゲルマニウム・ラジオで聞いていたものが、その日からは、録音しておけば翌日に好きなだけ聴けるようになったわけです。
録音できるのは、最長の120分のカセットテープで、片面の1時間まででしたが(まだリバーシブル機能はなし)、当時よく聞いていた文化放送の「セイヤング!」は、どのパーソナリティも、番組の冒頭で、歌謡曲ベストテンや洋楽ベストテンを毎日のようにオンエアしてくれていたので、以前に比べて、圧倒的に巷のヒット曲に触れる時間は長くなりました。
深夜放送のランキングでしたから、歌謡曲よりも、やはりニュー・ミュージック系の方が強かった気がします。
しかし、このラジカセを手に入れると、音楽の興味は一気に洋楽へシフトしていくんですね。
ちょうど、ビートルズの赤盤青盤が発売されたタイミングで、どの番組でも、ビートルズがかかりまくっており、ここで一気にビートルズに傾倒し始めます。
その他にも、カーペンターズやエルトン・ジョンなどのリアル・タイムのアーティストだけではなく、サイモンとガーファンクルやモンキーズといった、60年代の洋楽に遡っていったのもこの頃。
音楽そのものへの興味は、この年に一気に膨らみました。
邦楽では、ユーミンや井上陽水、かぐや姫が脚光を浴び始めたのもこの年。
この「カラオケ記憶力テスト」では、主にシングル・レコードのランキングから歌えるものを選んでいますが、こういった当時の旬のアーティストたちになると、積極的にそのアルバムも聴くようになります。
今までは、テレビから流れてくる歌謡曲をなんとなく聴いていてものが、この年を境に、好きな曲は、カセットテープに録音して、繰り返し聴くようになるわけです。
この変化は大きかったと思います。
深夜放送で、アルバムの収録曲が全曲かかることはありませんが、友人たちにアンテナを張っていると、大抵誰かがどれかを購入しているので、借りたり、頼んで録音してもらったりで、段々とカセット・テープが増えていきました。
井上陽水の「氷の世界」「二色の独楽」、ユーミンの「ミスリム」などは、アルバムとして聴き込んでいるので、実際に記憶している楽曲は、この年以降はもっと多くなるはずですが、この「カラオケ記憶力テスト」は、あくまで年間ランキングにチャートインしたシングル発表曲に限定することにします。
それから、音楽の幅を広げた、もう一つの有力ソースは、FM放送ですね。
当時のFM放送といえば、「FM東京」と「NHK-FM」の二局くらいしかありませんでしたが、様々な番組でオンエアされる楽曲が、当時の情報誌「FMレコパル」や「FMファン」には全て掲載されていましたので、これにセッセとラインマーカーを引いて、お気に入りの曲を片っ端から録音していきました。
ですから、ヒット曲は友人たちから音源を仕入れて、自分で買うレコードといえば、友人の誰もが買わないような、少々ディープなものになることが多かったですね。
コロナ騒動が始まるまでは、この頃の友人たちと連絡を取り合って、定期的に酒を飲んでいたのですが(ちなみに、僕は下戸)、当時の思い出も含め、この頃ヒットした曲は、全員が今でも、かなりしっかりと覚えていて、そんなことを肴に、宴は毎回盛り上がっています。
歌えたのは、57曲でした。
赤い風船 (浅田美代子)
個人授業 (フィンガー5)
若葉のささやき (天地真理)
白いギター (チェリッシュ)
てんとう虫のサンバ (チェリッシュ)
みずいろの手紙 (あべ静江)
夜空 (五木ひろし)
狙いうち (山本リンダ)
禁じられた遊び (山口百恵)
草原の輝き (アグネス・チャン)
恋の雪別れ (小柳ルミ子)
わたしの青い鳥 (桜田淳子)
絹の靴下 (夏木マリ)
イルカにのった少年 (城ミチル)
私の彼は左きき (麻丘めぐみ)
57曲
さて、1972年です。
小学校を無事に卒業して、めでたく中学生になった年です。
進学したのは、浦和市立大原中学校。
浦和といえば、サッカーの街。
我が母校も、サッカーの強い中学校で、当時全国大会で優勝してくるようなチームでしたが、サッカーオンチの僕は、柔道部に入部。
理由は明快。
人気スポ根ドラマ「柔道一直線」の影響でしたね。
さて、カラオケしてみてビックリしましたが、なんとこの年流行の歌謡曲を、前年の48曲を大きく上回って、63曲も歌うことができました。
「あれ、これどんな曲だったっけ?」
最初はちょいと首を捻るのですが、YouTube で確認してみると「おお、これか。覚えてる。覚えてる。」ということで、歌ってみると案外これがスラスラとメロディが浮かんでくるわけです。なんだか嬉しくなってしまいました。
レコードも、持っていないのにです。
もしかしたら、山本リンダの「どうにもとまらない」が一枚あったかもしれません。
ならば、どこで覚えた?
まだ当然、カラオケなど、影も形もない時代です。
確かに、今に比べて、歌謡曲の番組は多かったかもしれませんが、まさかテレビを見ているだけで覚ええたのか。
思い当たることが一つあります。
おそらく、この頃に、僕はギターを仕入れています。
家にガットギターがもともと一台あって、最初はこれで、お決まりの「禁じられた遊び」を弾き始めたのですが、年上の従兄から、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」を教えてもらったあたりから、火がつきます。
ここから一気に、ギターにのめり込み始め、その流れで、どうしてもフォーク・ギターが欲しくなっていくわけです。
しかしギターは、当時の中学生にとっては、やはり高価。
親にせがみましたが却下されたので、多分当時の小遣いで、白いフォーク・ギターを通販で買ったという記憶です。
これで、簡単なコードをいくつか覚えると、ギター教本の曲にはめもくれず、実家の店頭に並んでいる、歌本を拝借しててきては、当時のヒット曲を片っぱしから、生ギター伴奏で歌い始めたのがちょうどこの頃です。
学校の教科書よりも、はるかに長い時間、コード譜のついた流行歌の歌詞を眺めてばかりいましたので、この時期に脳裏に刷り込まれた歌謡曲は、もしかしたら、人生で一番多くても不思議はありません。
まだカラオケなんてなかった時代です。
流行歌を思い切り歌おうと思ったら、おそらくこのスタイルにならざるを得なかったかもしれません。
我が世代の男子には、案外ギターのコードくらいは、今でも追いかけられるやつが多いのは、この理由によりますね。
最新の楽譜や、雑誌「平凡」「明星」の付録の歌本を、好きなだけ見られる環境であったのは大きかったかもしれません。
レコード大賞を獲得した「喝采」が巷に流れたのがこの年。
レコード大賞の授賞式の様子を、この年はよく覚えていて、大賞を獲得したちあきなおみよりも、「あの鐘を鳴らすのはあなた」で、最優秀歌唱賞を受賞した和田アキ子が、涙でわけがわからなくなって、隣にいたジュリーの手を引っ張りながら高橋圭三の待つステージへ歩いていったのをよく覚えています。
従兄弟からもらったゲルマニウム・ラジオで夜な夜な、深夜放送を聴き始めたのもこの年でした。
男の子女の子 (郷ひろみ)
怨み節 (梶芽衣子)
狂わせたいの (山本リンダ)
祭りのあと (よしだたくろう)
ハチのムサシは死んだのさ (平田隆夫とセルスターズ)
魔法の黄色い靴 (チューリップ)
ともだち (南沙織)
春夏秋冬 (泉谷しげる)
そして神戸 (内山田洋とクールファイブ)
学生街の喫茶店 (ガロ)
ゴッドファーザー〜愛のテーマ〜 (尾崎紀世彦)
喝采 (ちあきなおみ)
結婚しようよ (よしだたくろう)
63曲
さて、西暦では70年代に入ります。
昭和45年は、1970年。
この年は、忘れもしない「万国博覧会」の年でした。
僕は、小学校5年生になっていました。
この年、我が小学校では、一年先輩の六年生の修学旅行が、「大阪万博見学」だったんですね。
これは、非常に悔しかったのを覚えています。
もう一年、万博を延長してくれたら、僕らの学年も行けたのにと思ったものでした。
我が家は、忙しい本屋で、両親ともに働いていましたので、この年結局万博に行こうという計画は立たず、万国博覧会は見ることはできませんでした。
万博の特集号を読んでは、色々なパビリオンの、「呼び物」に想いを馳せておりました。
さて、歌謡曲は、この年になると、いっそう身近になってきた印象。
というよりも、こちらの方の感性が、だんだん流行歌に近づいていったんですね。
これは、やはりテレビの影響が大きかったと思います。
「夜のヒットスタジオ」は、この頃はすでに毎週見る番組として定着していましたが、日本テレビの「NTV紅白歌のベストテン」も、前年くらいから始まり、この頃は鑑賞ルーティンになっていました。
歌謡曲の歌手たちは、この頃になると、すでにそれまでのアイドルだった「怪獣」たちよりもより身近な存在になっていたように思います。
この頃になると、ヒットして流行していれば、なんでもいい曲といったミーハー的感覚から、次第に自分の好みの曲なども出現し始めていたというのは、今になってみるとよくわかります。
大晦日に、家族全員で「紅白歌合戦」を見るという習慣も、この頃から定着し始めていました。
いや、今考えると、すでにあった習慣に、この辺りから僕自身が参加し始めたということだったかもしれません。
そういえば、あのモンスター番組ドリフターズの「8時だよ!全員集合」も、この前年から始まり、この頃にはしっかり土曜の夜の定番になっていました。
この番組には、コーナーのつなぎに、出演歌手によるパフォーマンスがふんだんにあって、やはり歌謡曲と接するいい機会になっていました。
前年までの2年間、世の中を席巻したグループサウンズは、この年には嘘のように収束し、よしだたくろうの登場で、入れ替わるように、フォークソングのムーブメントが動き始めたのもこの年。「ニューミュージック」が登場するのはまだその後のことです。
後に多大な影響を受けることになるビートルズも、サイモンとガーファンクルも、すでにこの年には解散していましたが、この当時はそんなことは、知る由もありません。
この年に流行した歌謡曲で、歌えた曲は34曲でした。
以下の通り。
青春の詩 (よしだたくろう)
イメージの詩 (よしだたくろう)
笑って許して (和田アキ子)
空よ (トワ・エ・モア)
ドリフのほんとにほんとにご苦労さん (ザ・ドリフターズ)
ドリフのズンドコ節 (ザ・ドリフターズ)
老人と子供たちのポルカ (左卜全とひまわりキティーズ)
誰もいない海 (トワ・エ・モア)
京都慕情 (渚ゆう子)
さて、1969年です。
後に、洋楽に目覚めてから遡ると、この年は色々とエポックメイキングな年だったのですが、そんなことは、当時小学校4年生だった少年には、知る由もありません。
この歳になってくると、歌謡曲への興味はグッと膨らんできます。
もちろん、歌える曲も、一気に増えて38曲。
中には、今まで、カラオケで一度も歌ったことのないような曲もちゃんと覚えていて、「流行歌」のパワーを感じますね。
この歳になって来ると、我が家にも歌謡曲のレコードが並び始めます。
大ヒットした「黒猫のタンゴ」は、自前のレコードだったような気がしますが、我が実家の本屋に住み込みで働いてくれていた青年が、歌謡曲の大ファンだった影響は大きかったようです。
彼の部屋には、「明星」「平凡」の付録ポスターや、レコードのジャケットがそのまま貼ってありました。
ちあきなおみの「雨に濡れた慕情」、アン真理子の「悲しみは駆け足でやってくる」、新谷のりこの「フランシーヌの場合」など、結構大人っぽい渋い歌が彼の好み。
これらの曲がすんなり歌えたのも、彼にレコードをたっぷり聞かされた影響でしょう。
そして、このあたりからグッと歌謡曲にのめりこめたのには、この前年暮れから放送が開始されていたフジテレビの「夜のヒットスタジオ」の影響が大きかったと思います。
司会は、この当時は、前田武彦と芳村真理。
月曜夜の10時からという放送でしたが、子供はそろそろ寝る時間にも関わらず、学校の宿題もせずに起きていて、大人たちに混じって、しっかり毎週見ていましたね。
「モグラのお兄さん」小林大輔によるコンピューター相性占いで、中村晃子、いしだあゆみらが号泣したのも覚えていますし、小川知子が当時の恋人だったレーサーが事故死したニュースを伝えられて、泣きながら「初恋のひと」を歌ったシーンも、リアルタイムで記憶しています。
この当時の歌謡曲を、ビジュアルとして記憶しているのには、この大長寿番組の影響は相当大きかったと思われます。
それまでは、レコード歌手などという人たちは、得体の知れない、遠い空の上の人という存在でした。
しかし、この番組の司会者たちの自然体でのアプローチから引き出される歌手たちの当たり前の人間性が妙に新鮮で、見ていてなんだかワクワクした記憶があります。
夜と朝のあいだに (ピーター)
三百六十五歩のマーチ (水前寺清子)
白い色は恋人の色 (ベッツィ&クリス)
夜明けのスキャット (由紀さおり)
恋の奴隷 (奥村チヨ)
さて、1968年です。
この年は、浦和市立上木崎小学校の4年生でした。
「ウルトラセブン」の終了で、テレビの怪獣ブームはひと段落。
それと入れ替わるように始まった「巨人の星」と「あしたのジョー」のテレビ・アニメの影響で、子供たちの流行も一気にスポ根ブームへとシフト。
「タイガーマスク」「サインはV!」「柔道一直線」は、テレビ放送はこの翌年でしたが、もちろん、そこは本屋の息子です。
まだ連載漫画だった頃から、「少年マガジン」「少年キング」果ては、「少女フレンド」に至るまで、漫画雑誌は、ほぼ全誌チェックしていましたね。
ちなみに、今なお少年漫画雑誌のトップを疾走する「少年ジャンプ」の創刊は、この年でした。
さて、昭和43年は、個人的には、「歌謡曲元年」と位置付けています。
これまで、子供向けテレビの主題歌一辺倒だった音楽嗜好が、初めて意識的に歌謡曲に向かった最初の年でした。
それには、二人の歌手の存在が大きかったですね。
まず、一人目(1組目)はピンキーとキラーズ。
デビュー曲だった「恋の季節」は、子供心にも強烈なインパクトがありました。
このレコードは、おそらく買ってもらったのだと思いますが、初めて「自分のレコード」として意識した最初の歌謡曲のレコードだったと思います。
それこそ、擦り切れるくらい聞きました。
このシングルのB面だった「つめたい雨」(ユーミンではありません)も、おそらくカラオケがあれば今でも歌える曲。
ピンキーのトレードマークとも言える、シルクハットとステッキも欲しかったのですが、残念ながらそれは買ってもらえませんでした。
この曲の大ヒットで、この年の紅白歌合戦にも出場したピンキーとキラーズは、この翌年に「青空にとび出せ!」というロードムービー風の連続ドラマにも出演しましたが、もちろん毎回見ていましたね。
怪獣小僧も9歳になって、テレビの向こう側の、女性タレントを意識するようになったわけです。
そして、もう一人意識した女性歌手がいました。
黛ジュンです。
彼女も、この年に大ブレイクした歌手でした。
「天使の誘惑」が、この年のレコード大賞に輝いていますね。
もちろん、この歌も大好きでしたが、僕が個人的に強烈に思い入れがあったのは「夕月」という曲。
黛ジュンといえば、「一人グルーブサウンズ」と言われるくらい、バンド演奏風アレンジの曲が多いのですが、この曲は、珍しくしっとりしたバラード。
実は、人気絶頂の彼女主演で、この年に公開された松竹映画が「夕月」でした。
この映画を、僕は閉館寸前の「与野文化劇場」で、見ています。
おそらくこの頃、怪獣映画以外で、自分のお小遣いで見た映画は、このくらいだったと思います。
入場料は子供料金で当時50円。
多分映画館に行ったのは一回だけではなかったはずです。
彼女の相手役は、これが映画デビューとなった森田健作。
前千葉県知事です。
彼は、ボクサー役で、最後は死んでしまうのですが、その彼の面影を胸に抱いて、ラストで一人夕闇の街を歩く黛ジュンのバックに流れるのが「夕月」。
スプリングが飛び出た「与野文化」のくたびれた座席に身を埋めて、9歳の僕は号泣しておりました。
さて、この2曲も含めて、この年流行の歌謡曲で、歌えたものは22曲。
歌謡界は、前年から引き続き、まだまだグループ・サウンズが花盛りでした。
山谷ブルース (岡林信康)
さて、1967年です。
この年は、小学校3年になる新学期のタイミングで、埼玉県の浦和市に引っ越しています。
今の、さいたま市ですね。
京浜東北線の与野駅西口を降りて58歩。
駅前与野銀座の入り口から三軒目の本屋「いずみ書店」が、新しい住みかでした。
ちょっとややこしいですが、与野駅は、当時、与野市ではなく浦和市にあったんですね。
現在の与野駅西口は、後の区画整理で様変わりしてしまって、当時の面影はありません。
この年の歌謡界は、グループ・サウンズが席巻しました。
しかし、8才の少年としては、まだ相変わらず興味があるのは、怪獣とアニメでしたね。
ゴジラに迫るヒーローとして新たに登場したのはガメラ。
この年に公開された、「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」には、ハマりました。
家の近くに2番館の映画館「与野文化劇場」がありましたので、公開中は何度も見にいった記憶です。
同時に見たのが「大魔神」や「妖怪百物語」。
この時期は、完全に、東宝特撮よりも、大映特撮が贔屓でした。
テレビの方では、「ウルトラセブン」を筆頭に、「ジャイアント・ロボ」や「仮面の忍者赤影」がお気に入り。
覚えているのは、当時の「いずみ書店」には、地方から来た若者に住み込みで働いてもらう枠があって、僕は彼らによく遊んでもらっていましたが、彼ら(彼女もいました)がちょうどお年頃で、自前のレコード・プレーヤーで、歌謡曲を熱心に聴いていたんですね。
僕の愛読書は、「少年マガジン」「少年サンデー」小学館の「小学三年生」などでしたが、彼らの愛読書は、人気歌手が表紙になっている「平凡」や「明星」。
その付録の、お気に入りの歌手のポスターを、自分の部屋に貼っていたりしたのはよく覚えています。
レコードもよく聞かせてもらいました。
ここで覚えた歌謡曲は結構あったかもしれません。
子供心に、フォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」やジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトー」はお気に入りでした。
あの当時に、妙な歌謡曲いじりが流行っていて、「ブルー・シャトー」の歌詞でこんなふうに遊んでいたのを覚えています。
「♪ もりトンカツ 泉ニンニク かコンニャク まれテンプラ〜」
ちなみに、当時のいずみ書店では、なんとレコードも売っていたんですね。
後の店内改装で、「本と文具」の店になりましたが、この時点での売れ残り在庫が、段ボール箱に入れられたまま、しばらく倉庫に残っていました。
区画整理で店を取り壊すことになった時、そのレコードは「お宝」として、僕が引き取りました。
時代は、もうCDの時代になっていて、それを聞くことはありませんでしたが、ジャケットだけは、資料としてスキャンしてパソコンに取り込み、あとはヤフオクで売ってしまいました。
そのジャケ写は、今でも部屋中に貼ってあります。
さて、この年に流行した歌謡曲で、ちゃんと覚えていた曲は27曲でした。
以下の通りです。
虹色の湖 (中村晃子)
真赤な太陽 (美空ひばり)
さて、昭和41年です。
西暦で言えば、1966年。
僕は、東京都大田区立大森第五小学校の2年生で、7歳でしたね。
調べたら、少子高齢化の波の中でも統廃合されずに、健在でした。
さて、この年で、当時の子供たちにとって、最もエポックメイキングなことは、なんと言っても日曜夜7時からのテレビ放送タケダ・アワーでしょう。
「タケダ、タケダ、タケダ〜」に続いて、あのおどろおどろしいオープニング。
そうです。「ウルトラQ」が、放送されたのがこの年でした。
映画館でしか見ることのできない怪獣が、テレビのブラウン管(昔のテレビは、みんなこれでした)で、毎週見られるとあって、かじりついていた記憶があります。
そして、この年の後半、この「ウルトラQ」の後番組として始まったのが「ウルトラマン」。
もちろん、毎週見ていましたが、この頃の我が家のテレビはまだ白黒。
「ウルトラマン」をカラーで見たのは、ずっと後の再放送でした。
テレビでは、他にも、「マグマ大使」や「サンダーバード」は、記憶に鮮明。
歌謡曲の番組は、意識してみていた記憶はありませんが、大人たちの見ていた番組を横目では見ていたのでしょう。
三木鮎郎という、ちょっと小洒落たセンスのオジサマが司会をしていた「TBS歌謡曲ベストテン」、そして、玉置宏氏が司会をしていた「ロッテ歌のアルバム」という歌番組をかすかに覚えています。
この玉置宏氏は、ずっと後になって、大学生の頃アルバイトをしていた池袋の「杯一」というグランド・キャバレーの歌謡ショーで、生の司会を見たことがあります。
この年は、前年に「君といつまでも」で大ブレイクした、シンガー・ソング・ライターとしての加山雄三の当たり年。
世の中は、エレキの大ブームで、歌謡曲もだんだんとバンドテイストになってきて、後のグループサウンズの先駆者として、スパイダーズやワイルドワンズがヒットを飛ばした年でした。
フォーク・ソングも芽吹いた年で、マイク真木の「バラが咲いた」は、確か音楽の教科書に乗っていました。
この年の歌謡曲で、きっちりと歌えたものは28曲。
やはり、前年よりは多かったですね。
ちょっとうろ覚えもありましたが、YouTubeで確認して、記憶が蘇ったものも数曲。
巷にカラオケが広まって以降、おそらく一度も歌った記憶がないような曲でも、意外にスラスラ歌えるのには驚きました。
流行歌というものは、好きとか嫌いとかは関係なく、自然に脳裏に刻み込まれてるものなのだなと思った次第。
コテコテの演歌や歌謡曲よりも、洋楽テイストの荒木一郎がカッコいいななどと思いつつ、城卓也の「骨まで愛して」を口ずさんでいるような少年でした。
蒼い星くず (加山雄三)
若者たち (ブロードサイドフォー)
さて、ここからは、一年ごとに「歌謡曲」の記憶を辿っていくことにします。
昭和40年は、1965年。
僕は、6歳の小学校一年生ということになります。
当時住んでいたのは、東京都大田区。
京浜線の平和島駅の近くでした。
路地を一本入った「たまや」という本屋が我が家。
この店は、祖母が切り盛りしていましたね。
母親は、僕が3歳の時に乳癌で他界しており、父親はサラリーマンをやめ、僕たち兄弟を祖母に預けて、埼玉県で本屋の修行をしていました。
さて、どんな世の中だったか。
内閣総理大臣は、前年に就任したばかりの佐藤栄作。
安倍晋三氏の大叔父にあたる人です。
読売巨人軍の9連覇がスタートしたのがこの年でした。
コマーシャルでは、「ファイトで行こう!」と王貞治が言っていましたし、大村崑が「オロナミンCは、小さな巨人です。」と言いながら、メガネをずり落としていました。
相撲では、大鵬が全盛期で、三場所で優勝。
「巨人・大鵬・卵焼き」の時代でしたが、我が家ではあまり卵焼きを食べた記憶はありません。あの頃は、今と違って、卵は、けっこう高級食材でした。
さて、歌謡曲です。
この当時、歌謡曲番組を見ていた記憶はないのですが、この年に巷に流れた歌謡曲で、今現在歌えた曲は25曲。
まだ6歳ですから、その当時に、この曲を全て歌えたはずはありません。
後から覚えていった曲の方が多いと思います。
当時の我が家には、レコードプレイヤーはあったと思いますが、歌謡曲のレコードはなく、聞いていたのはもっぱらアニメのソノシートでした。
あの頃はまだ歌謡曲を意識的に覚えようとした記憶もないので、やはりどこか当時の風に吹かれながら、毛穴から染み込んでいたのでしょう。
西郷輝彦の歌う、「星のフラメンコ」の「オーレ!」は、やっていたような記憶が微かにあります。
貴様と俺 (布施明) ドラマ「青春とはなんだ!」挿入歌
愛して愛して愛しちゃったのよ(和田弘とマヒナスターズ・田代美代子)
逢いたくて逢いたくて (園まり)
ワン・レイニー・ナイト・イン・東京 (和田弘とマヒナスターズ)
君といつまでも (加山雄三)
ろくでなし (越路吹雪)
夢見るシャンソン人形 (中尾ミエ)