続けて、「東宝変身人間シリーズ」を見ようと思ったら、primeビデオのラインナップに、あの懐かしいテレビ・ドラマを見つけてしまいました。
「傷だらけの天使」です。
いやあ、これは懐かしい。
日本テレビで放映されたのが、1974年から1975年にかけてですから、僕はまだ中学三年。
ちょうど色気付いてきた頃に見たこのドラマは、衝撃的でした。
主演は、萩原健一と水谷豊の愛しきアウトロー・コンビ。
いわゆる「バディもの」のハシリではなかったでしょうか。
オープニングで、ショーケンがワイルドに朝食を食べるシーンは、密かに真似したモノです。
プライム・ビデオで、全26話全てが見られますが、今回どうしても見直したかったのが第3話。
「ヌードダンサーに愛の炎を」
これは、当時の中学生にとってはかなり強烈で、今でもはっきり覚えています。
なんといっても、舞台になるのが浅草ロック座。
(オサムが着ていたハッピにそう書いてありました)
知る人ぞ知るストリップ劇場の殿堂です。
そして、ここでストリッパーを演じたのが、中山麻理です。
中山麻理といえば、僕らの世代では、「サインはV」の椿麻理。
主演の岡田可愛とのコンビネージョンによる「X攻撃」が、必殺技でした。
あのシーンの時、朝丘ユミよりも、椿麻里の揺れるバストの方を注目していたのは、果たして僕だけだろうか。
その彼女が、ついにその魅惑のバストを惜しげもなく披露してくれたのが、「ヌードダンサーに愛の炎を」。
この前回の予告編で、この情報を知ると、その1週間を指折り数えて、固唾を飲んで、自分の部屋のテレビの前に陣取った記憶があります。
もちろん、ビデオデッキなどない時代。
すべては、自分の両目に焼き付けなければいけません。
当時は、アダルト・ビデオなどない時代でしたが、テレビでのヌードの規制は、逆に今よりもはるかに緩かったですね。
この回は、ストリップ劇場が舞台でしたから、とにかくヌードのオンパレード。
今では、作る方の自主規制で、こんなシーンがドラマで撮られることは、まずありません。
さあ、そんな中で登場した中山麻理演じる、ストリッパー有明マリ。
期待通りに、全編にわたって、魅惑のバストを惜しげもなく披露。
よくありがちな、思わせぶりのカットなど一切なし。
これは、中学生には、衝撃的だったでしょう。
気合いの入った演出だなあと思っていたら、テレビドラマであるにも関わらず、監督が深作欣二でした。
時期的には、「仁義なき戦い」の頃で、一番脂の乗り切った頃です。
しかも、脚本は市川森一。
確かに、彼女のヌードがなくても、映画レベルの一級娯楽品であったかもしれません。
中山麻理は、後に沢田研二と共演した「炎の肖像」。
後の旦那になる三田村邦彦と共演の映画「限りなく透明に近いブルー」にも出演。
もちろん、全て見ていますが、何を目的で見に行ったかは、推して知るべし。
後の僕の女優の趣味に、大きな影響を与えた一人であることに、間違いありません。
何かと、話題になっている麻雀。
高校から大学にかけては、よくやりましたね。
正直申して、あまり強くありませんでした。
とにかく、大勝ちした記憶がほとんどありません。
学生麻雀でしたから、レートは低く、小遣いでなんとかなる程度のものでしたが、反対に、大負けした記憶の方ら、はっきりと覚えています。。
有り金そっくり進呈したことも何回か。
やはり学生の身分では、財布が空になるのはしんどいので、いつの間にか、麻雀は、大勝ちしない代わりに、「大負けもしない」という打ち方になって行ったような気がします。
要するに、「高め狙い」は、避けて、無難に安い手で上がっておく。
誰かがリーチしたら、自分の手は捨ててベタ下りする。
そう言う意味では、我ながらあまり、「面白い」麻雀ではありませんでした。
終わってみれば、結局二位か三位。
最初勝っていても、負けていても、最後にはトントン。
かけた時間、費用対効果で言えば、あまり実にならない麻雀を打っていたなぁと思いますね。
麻雀の醍醐味といえば、やはり「役満」でしょうか。
この映画の中でも、天和、四暗刻タンキ、字一色、なんてのが出てきます。
最後に、出目徳が、死ぬ瞬間に積もっていたのが、九連宝燈。
どれも麻雀の華ですが、もちろん上がった記憶はありません。
学生時代に、アルバイト先の大人たちに混じって、「テンピン」の麻雀もしたことはありますが、これはもう初めから「大負けしない」打ち方に徹してしまっていたので、勝った負けたよりも、ドキドキした記憶しかありません。
麻雀に限らず、ギャンブルのセンスは、自分にはないと確信しています。
映画の中で、ドサ健が、坊や哲にこう言います。
「俺は、自分のツキの入れ物ってのを分かってる。」
ギャンブルの強い人というのは、概ねみんなそうなのでしょう。
つまり、ツキの潮目を見誤らない。
要するに「引き時」をわかっていると言うこと。
これをわからない人が一定数いるからこそ、公営ギャンブルが、経営として成り立っているわけです。
「ギャンブルをやっても、勝てる気がしない。」
僕が、競輪、競馬もやらなければ、パチンコもやらない、宝くじも買わない理由は、これに尽きます。
パチンコなどは、お恥ずかしい話、これまでも、1000円以上使った事はありません。
勝てる気がしないのですから、当然やって面白いわけがない。
ギャンブルに、ハマる人の話を聞いていると、大抵は「大勝ち」したときの記憶を、誇らしげに語りますね。
つまり、その一回の記憶が、それを上回る負けの記憶を凌駕してしまうと言うのが、ギャンブルの魔力なのでしょう。
僕が、ギャンブルで買った記憶がないと言うのは、その意味では、幸せなことだったかもしれません。
自分のハマりやすい性格を考えると、尚更です。
ギャンブルも、依存症まで行ってしまうと、これはもう立派に病気。
ここまでくると、勝ち負けよりは、勝つか負けるかのスリルに犯されて、やめられなくなるのでしょう。
ギャンブルの危険性と、スリルを映像化した映画といえば、思い出すのが、「ディア・ハンター」。
あのロシアンルーレットのシーンは、迫力満点でした。
負けたら、命が・・・
そこまでとは言いませんが、賭け麻雀で辞任した黒川検事長も、案外その口だったかもしれません。
発覚したら、その地位も失いかねないリスクを負った上でのスリル。
普通に考えたら、彼の立場を考えれば、そんなものには手を出さないと言うのが常識でしょう。
しかし、彼の場合は、それが常習になっていた。
黒川氏が、彼の立場で、お金目的の麻雀をやっていたとは、とうていは思えません。
やはり、バレたら全てを失う、そのギリギリの状況でのスリルから抜けられなかった。
それゆえの常習だったかもしれません。
そうでもしないことには、日頃のストレスを処理できなかった。
そうだとしたら、やはり病気です。
映画では、麻雀には勝っていた、出目徳が、死んでしまう事で、最後は身ぐるみ剥がされてしまいます。
しかし、黒川氏の方は、検事長は辞任した上で、軽い訓告処分。
身ぐるみ剥がされるということはないのでしょう。
この先、重職から離れて一般市民になった彼が、果たして麻雀を続けるかどうか。
これは、ちょっと興味のあるところです。
検事長を退いてしまえば、そこそこ勝たせてもらえる「接待麻雀」の役得もなければ、麻雀をやる事自体のスリルもなくなる。
そうなれば案外、彼の麻雀の楽しみ方は、ガラリと変わるかもしれません。
もしも、呼んでいただけるなら、是非一卓囲んでみたいところ。
案外、素の彼が、伺えるのかもしれません。
映画は、1984年の角川映画。
監督は、映画通で知られるイラストレーターの和田誠。
舞台は、終戦直後の日本です。
その時代的ムードを出すために、映画はモノクロでクラシック調に撮影。
まるで、志村喬や田中絹代が出てきそうな画面で、真田広之や大竹しのぶが演技しているのは、ちょっと不思議な味わいでした。
ドサ健の役は、鹿賀丈史が演じていましたが、元々は松田優作にオファーされていたのだそうです。
松田優作のドサ健は、確かにちょっと面白そう。
これは、ちょっと見て見たかった気がします。
映画には、加賀まり子のこんなセリフがありました。
「この世界には、友情なんてものはないのよ。
ボスと手下と敵と、この三つだけ。」
黒川元検事長のボスといえば、やはりあの人。
ここは、老婆心ながら、潮目は見誤ることのなきよう一言ご忠告させていただきます。
引き際を間違えると、穴の底へ落ちて、二度と上がって来れません。
映画の中には、そんなセリフもありましたね。
そうしないと最後は・・
1978年11月3日金曜日の深夜。
僕は自室で、テレビをつけっぱなしのまま寝ていました。
まどろんでいると、なにやら、聞いたことがあるようなないような不思議な楽曲が耳に入ってきます。
モソモソとベッドから起き上がってつけっぱなしのテレビを見ると、そこには見たことがあるようなないような不思議な映像。
そして音楽。
しばらくすると、その音楽は、その頃、浴びるように聞いていたビートルズの楽曲のパロディと判明します。
チャンネルは当時の「東京12チャンネル」。
その頃よく見ていたイギリスのバラエティ番組「空飛ぶモンティ・パイソン」の枠で放映されていたその番組は、ビートルズのサクセス・ストーリーをパロディにした「オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ」であると判明。
番組の中に登場するバンドは、ビートルズならぬラットルズ。
パロディとしては、あまりにも高いクォリティのその番組に、僕は目を丸くしながら、テレビにくぎ付け。
見終わった時には、日付を超えていました。
終了してみれば悔やまれるのは、まだ、夢の中にいた、番組冒頭の15分くらいを見逃したこと。
まだビデオ録画なんて習慣のなかった頃の作品。
以来ことあるごとに、レンタルビデオや、再放送などはチェックしてはきましたが、このマニアックな作品には、なかなか再会できないでいました。
僕にとっては、幻のこのテレビ映画を、この度、Amazone のラインアップから発見。
輸入商品ではありましたが、早速購入。
届いたBlu-ray が「The Ruttles Anthology」。
ほぼ40年ぶりに、あの日見逃していた、冒頭の15分を含む全映像を通して鑑賞いたしました。
ラットルズの四人のメンバーは以下の通り。
ロン・ナスティ(ネタ元は、ジョン・レノン)
演じたのは、ニール・イネス。
ダーク・マックィックリー(ネタ元は、ポール・マッカートニー)
演じたのは、モンティ・パイソンのメンバーの一人、エリック・アイドル。(彼は、レポーター役も兼任)
スティッグ・オハラ(ネタ元は、ジョージ・ハリスン。
演じたのは、リッキー・ファター。
バリー・ウォム(ネタ元は、リンゴ・スター)
演じたのは、ジョン・ハルシー。
ビートルズの本国イギリスで製作されただけあって、改めて見ても、よく練られ、よく研究された脚本であることにまず感服。
番組は、ビートルズの結成から、解散までの8年間を、そのまま、ラットルズという架空のバンドに置き換えて、フェイクのドキュメンタリーとして構成。
当時としては、巧みな映像とモンタージュ技術、そして音声技術を駆使したモキュメンタリー作品になっています。
中でも見事なのは、ニール・イネスとエリック・アイドル。
この二人が、ジョンとポールの仕草や演技を、徹底的に研究していてお見事。
ジョージを演じたリッキー・ファターは、インド系のイギリス人で、これもジョージのビートルズ後期の音楽性を考えるとニヤリ。
このリッキー・ファターですが、ジーョージの「一番寡黙なビートルズ」というイメージを逆手にとって、演奏シーン以外は一言のセリフもありません。(これも再見して発見)
この辺りもニヤリ。
ニヤリといえば、インタビュー・シーンに登場する大物。
このあたりは、「モンティ・パイソン」の面目躍如。
ひとりは、ミック・ジャガー。
もう一人は、ポール・サイモン。
まあ、お二人ともなかなか洒落がわかるようで、この架空のバンドであるラットルズについて、あたかも実在のバンドであるかのように、しれーっとコメントしています。
いかにも英国センス。
それから、40年前は気がつきませんでしたが、ロック少年の役で、ローリング・ストーンズのロン・ウッドも出てましたね。
そして、エリック・アイドルが、アメリカの名物番組「サタデイナイト・ライブ」のホストを務めたこともある関係で、この番組の常連タレントであった、ブルース・ブラザーズの二人、ジョン・ベルーシとダン・エイクロイド。そして、ビル・マーレイなども芸達者なところを見せていました。
もともと、このラットルズの出発点は、この「サタディナイト・ライブ」でのパフォーマンスなんですね。
そして、何と言ってもビックリするのは、イジられた本人である、ビートルズのジョージ・ハリスンもテレビのレポーター役で出演していること。
この辺りが、洒落の分かる英国気質といいますか、この番組が、陳腐なバラエティにありがちな単なる「悪ふざけ」になっていない証かもしれません。
ビートルズの設立した会社のロゴは、「アップル」ではなくて「バナナ」。
アメリカでの球場ライブの先駆けとなった「シェア・スタジアム」は「チェ・スタジアム」。
ジョンの妻は、日本人ではなくて、ドイツ人ヒットラーの娘。
とにかく、いちいちニヤリです。
そして、このテレビ映画の白眉は、なんといっても音楽。
楽曲すべてが、この番組のために作られたラットルズのオリジナルです。
すべて、ビートルズの楽曲を、ネタ元にしていますが、これが単に、パロディとは片付けられないほどのクオリティ。
シングルやアルバムにもなっています。
とにかく、40年前に聞いただけの楽曲なのに、今聞いてもちゃんと耳に残っていたのは驚きでした。
ビートルズを彷彿させる、この番組内のすべての楽曲を手がけたのは、ニール・イネス。
ジョン・レノンのロン・ナスティを演じた彼です。
まるで、ビートルズの未発表曲を聞かされているようなほどの完成度。
彼の高い音楽性が、この番組のレベルを上げるのに、大きく貢献しているのは間違いありません。
彼が七人目のモンティ・パイソンと言われたのもうなづけます。
日本のお笑い界に、これができる人が果たしているかなあ。
先日、荷主の謝恩会にお邪魔した時に、コージー冨田軍団の、「モノマネ芸」を、ナマで見る機会がありましたが、たしかに盛り上がりはするものの、あの芸は、やはり「お笑い」の域を出ないもの。
この番組のレベルではありませんでしたね。
そういえば、あのタモリが1981年に発表したアルバム「タモリ3 ー戦後日本歌謡史-」の中で、各楽曲のオリジナルのメロディを微妙に変えるセンスが、なかなかいい線いってたなと今思い出しています。
そのタモリですが、思い返せば、彼の芸能界への正式デビューが、この東京12チャンネルの「空飛ぶモンティ・パイソン」でした。
番組を見終わって、なんだかムラムラと、ラットルズのナンバーをカラオケで歌いたくなってしまいました。
しかし、このマニアックな楽曲があるはずはないなと思っていたら、なんと最近はまっているネットオラオケのSMULE のラインナップにちゃんとあることを発見。
早速歌ってしまいました。
オリジナルは、YouTube で観れるかもしれませんが、素人カラオケもまたおつなもの。
こちらです。
「ゲットバック」をイメージした
「ヘルプ!」をイメージした
日本のお笑い番組も、嫌いではないので、結構見ますが、残念ながら、洒落のセンスにおいては、まだ我が国は、発展途上。
こういうパロディを、「悪ふざけ」や「悪趣味」に落とさないギリギリのエスプリなり、ウィットは、まだまだ英国に軍配が上がりそうです。
「うわあ、まさか。」
「マジかよ。」
「ああ、やっぱりこうなるか。」
2018年7月3日。
ワールドカップロシア大会決勝トーナメント1回戦。
ロストフアリーナ。日本Xベルギー戦。
2対2の同点で迎えた後半アディッショナル・タイムのラスト14秒。
あの戦慄のベルギーの逆転ゴールの瞬間です。
悲鳴がため息になりましたね。
この「ロストフの14秒」は、去年のスポーツシーンの中で、僕にとっては、もっとも忘れがたい一瞬となりました。
世界中の誰もが、ベルギーの勝利を確信していたこの試合。
一次リーグ最後のポーランド戦で、決勝トーナメント進出のための時間稼ぎ戦術で、非難を浴びていた日本チームは、その汚名を晴らすかのように、後半早々の原口と乾のゴールでまさかの2点先制。
世界中のサッカーファンを驚かせました。
しかし結果論から言ってしまうと、この2点先制はちょっと早すぎた。
つまり、日本チームの誰もが、この展開を予想していなかったということ。
日本チームはここで明らかに、戸惑ってしまいます。
2点リードを守り抜く戦術で行くか。
それとも、あくまでも3点目を取りに行く攻めの姿勢で行くか。
このあたりの指示を、明確にしてやれなかったと、のちのインタビューで西野監督も言っていました。
そして、その戸惑いの中で起こった小さなミス。
それは、キャプテンの長谷部が蹴ったボールが、香川にダイレクトで当たり、相手ボールになってしまったという通常はありえないミス。
あの状況の中で、長谷部選手に気の緩みがあったとは思いませんが、それでもそのプレーは、余裕から生まれた明らかな無意識の油断。
これが何人かの選手にいやな予感を持たせ、最後には、あのラスト14秒のプレイの複線になります。
2点先制した直後は、明らかに試合の流れは、日本チーム。
3点目をとれるチャンスも確実に存在しました。
しかし、次のゴールを決めたのは、絶体絶命のベルギーチーム。
あの些細な日本のミスの直後のこと。
ゴール脇からヤン・フェルトンゲンの放ったループ気味のヘディングが、不幸にも、川島の頭上を越えてそのままゴール。
これでベルギーチームは、完全に息を吹き返します。
まだ、一点リードがあるにもかかわらず、日本チームの誰もが感じた恐怖感。
その恐怖は、5分後に現実のものとなりました。
フェライニの同点ゴールです。
一度は、負けも覚悟をしたベルギーチームに「勝てる」という自信が蘇ってきていました。
そして、迎えた後半90分終了後のアディッショナルタイム。
そこで日本はフリーキックという願ってもいないチャンスを迎えました。
キッカーは、途中交代で入っていた本田圭佑。
しかし、渾身の無回転シュートは、名手クルトワの手に弾かれコーナーキック。
そして、ここからのラストプレイで、痛恨の逆転劇が生まれます。
この場面で日本の選択は二つ。
ひとつは、ゴール前の昌子か吉田にヘディングで合わせるパスを送って決勝点を狙う。
そしてもうひとつは、パスを回して時間稼ぎをして、延長戦につなげる。
しかし、延長戦に入れば、地力で勝るベルギーチームには勝てないと判断した本田は、時間内に決着をつけることを選択します。
もちろんポーランド戦のような「時間稼ぎのプレイはもうしない。」という彼らの思いもあったでしょう。
本田は、一次リーグのコロンビア戦でも、コーナーキックを直接ゴールに決める決勝弾を放っていたので、日本チームの誰もがその再現のイメージを共有していたはずです。
しかしゴール前に上がった本田のコーナーキックは、199㎝の長身ゴールキーパー・クルトワがキャッチ。
この時、クルトワがボールをキャッチするよりもわずかに早く、ベルギーのMFデブルイネが、自陣に背を向け、日本ゴールに向かってダッシュしていました。
日本チームは、この切り替えの早さに、リアクションが、1秒にも満たないほんのワンテンポ遅れました。
しかし、このワンテンポが結局命取りになります。
クルトワは、走り出していたデブルイネの前にボールをパス。
ここから、ワールドカップ史上に残るベルギーチームの電撃のカウンターがスタート。
デブルイネは、スリータッチのドリブルで、一気に日本陣内へ。
この大きな間隔のドリブルを見て、ディフェンダーの山口蛍は、ボールを奪いにいく選択をします。
しかし、百戦錬磨のデブルイネは、これを待ち構えていました。
スリータッチ目の直後、デブルイネは、タッチの間隔を早めてドリブルを一気に超減速。
そして、タイミングをずらされた山口の右側のスペースに走り込んでいたムニエにボールをパス。
ここで、ルカクをマークをしていた長友は、ルカクを棄て、ムニエとゴールキーパーを結ぶ、この場面で最も怖いラインを消しにいきます。
これで、横パスしか出せなくなったムニエ。
日本チームも必死でゴール前に戻ります。
ムニエの出した横パスは、ゴール前に走り込んでいたルカクへ。
長友に変わってルカクに追いついていたのがキャプテン長谷部。
そして、ギリギリのタイミングで、ルカクのシュートコースは塞ぎます
しかし、エースストライカーのルカクは、この場面で、待っていたかのように、まさかのスルー。
自分よりも確実なシュートが打てると判断したシャドリに、シュートチャンスを譲ります。
ルカクは、のちのNHKの番組のインタビューで、「ボールが来たら、スルーすることは決めていた。後ろから来たシャドリが見えていたからね。」と言っていました。
自分に最大級のマークがつくことはわかっていたルカクは、最初からこの場面は、チームプレイに徹するということを決めていたというわけです。
そして、ほぼフリー状態でボールを受け取ったシャドリが劇的な決勝ゴール。
結局、最終的には、ルカクのこの判断が、ベルギーの奇跡的な逆転を決めたと言っても過言ではないでしょう。
勢いに乗ったベルギーは、この後のベスト8で、優勝候補のブラジルも撃破します。
長友が、のちのインタビューに答えてこういっていました。
「ピンチの後にチャンスありと言いますけど、この試合で思い知らされたのは、チャンスの後には、必ずピンチあるということ。」
かつて、日本サッカーの歴史の中には、忘れてならない「ドーハの悲劇」という事件がありました。
でもあれは、よくよく考えれば悲劇でもなんでもなかった。
残酷なようですが、あれは単なる日本チームの油断でした。
この「ロストフの14秒」も、心を鬼にして言えば、結果的に最終局面で、勝利への執念でベルギーが、日本に優っていたということでしょう。
ですから、このシーンを、ゆめゆめ「ロストフの悲劇」などとは謳わないでほしいところ。
先日のNHKの特番では、あの時、ロストフのピッチに立っていた日本選手の誰もが、口を揃えてこういっていました。
「できれば、あのシーンは見たくない。」
日本チームは、この敗戦から多くのことを学んだはず。
何が起こるかわからないワールドカップで、どんな展開になっても、揺れない強いメンタルを持つこと。
その敗戦を教訓にして、次回のW杯では、是非とも決勝トーナメント一回戦の壁を突き破ってベスト8、ベスト4へと駒を進めてほしいところです。
次回のワールドカップ開催地は、あのドーハのあるカタールです。
参考 NHKスペシャル「ロストフの14秒 日本vs.ベルギー 知られざる物語」
「黄金バット」は、もともとは昭和初期の紙芝居がルーツ。
紙芝居は、昭和の前半、まだテレビもなく、映画館にもそうそう行けなかった子供たちが自分の小遣いで手の届く唯一といっていいエンターテイメントでした。
ちなみに僕は、高度成長期真っ只中の昭和の34年生まれ。
ですから、僕の子供の頃には、もうすでに各家庭にはテレビはありました。
僕は、6歳まで、東京のダウンタウン大田区平和島に住んでいました。
でもまだあの辺りには、紙芝居のオジちゃんが来てくれていましたね。
ですから、リアルタイムの紙芝居興行には、ギリギリ間に合った世代です。
縁日のある夜の神社の境内に、自転車の荷台に紙芝居キットをくくりつけたオジチャンが、駄菓子を買った子供たちを集めて、自作(おそらく)見せてくれました。
ただ、その演目が「黄金バット」だったかどうかは不明。
時代劇だったような気がします。
実は、僕は紙芝居を自分で作ったことがあります。
小学校の五年生の時、当時の人気漫画「いなかっぺ大将」をモチーフにした作品でしたね。
これは友達よりも、親族に喜ばれました。
自分で作ったもので、人を喜ばせるという、今の道楽にもつながる原点がこれだったかもしれません。
「黄金バット」はその後「少年画報」での連載を経て、1950年に一度映画化されています。
そして、東映による二度目の映画化がこの作品。
1966年製作ですから、映画少年だった僕は見ていてもよさそうなのですが、これはまったく記憶にありませんでした。
おそらく今回が初見。
主演は、珍しく髭の千葉真一。
彼の記憶は、僕としてはTBSのドラマ「キーハンター」からですね。
この映画の記憶はありませんでしたが、実は「黄金バット」の記憶はあります。
それは、この翌年に放映された、アニメ版の黄金バットです。
あのトレードマークとなった、高笑いもこのアニメでの鮮烈な記憶です。
敵の首領ナゾーが叫ぶ謎の雄叫びが「オーンブローゾー」。
これは、はっきりと覚えていたので、この映画を見ながら、それがいつ出るかいつ出るかと構えていましたが、アニメの前年につくられたこの映画版では最後まで出てきませんでした。
あれは、アニメ版からのオリジナルだったようです。
このアニメのスタッフが手がけた2作目が「妖怪人間ベム」。
子供心には、「妖怪人間ベム」の方が、「黄金バット」よりも、強烈な印象がありました。
さて、映画です。
50年以上も前の子供向け映画の特撮映画です。
こちらが大人になったからといって、その甘い設定や特撮技術に野暮なツッコミを入れるようなことはよしましょう。
こういう昔の映画を見るときの楽しみ方のコツは出演者です。
「え? あの人がて出るじゃん」
これですね。
主演の千葉真一は当時27歳。
東映の「仁義なき戦い」あたりからは、この正義のヒーローのイメージはかなぐり捨ててしまった彼。
しかし、この映画では、まだ正義の味方。
でも日体大出身の彼の十八番であるアクションは少なく、むしろインテリ系の役でした。
それからパール研究所の少女隊員役で高見エミリー。
僕らの世代では懐かしい名前です。
彼女はあの頃の、少女雑誌の表紙をかなりの頻度で飾っていた女の子でした。
あの「リカちゃん人形」のモデルだったことで有名。
17歳で、鳩山邦夫と結婚して、芸能界から引退しで政治家夫人になってしまったのにはビックリでした。
同じく研究所の所員に、中田博久がいました。
この人は、この映画の翌年に「キャプテン・ウルトラ」を演じています。
そうそう、映画の冒頭に、青島幸男が警官役で出演していました。
その他、僕が印象に残ったのが、敵の怪人の一人ケロイド役の沼田曜一。
他の怪人とは、明らかに頭一つ抜けたキャラを演じていました。
あの「ダークナイト」で、ヒース・レジャーが演じたジョーカーを彷彿とさせる演技は注目。
それから出演者ではありませんが、印象に残ったと言えば、黄金バットの登場シーン。
あのサイレント時代のドイツ映画の傑作「カリガリ博士」が下敷きにあったらしき演出。
そういうネタ元を見つけていくのもこの手の映画の楽しみ方。
古い懐かしい映画を見て、意外な俳優を見つけたり、新たな再発見をするという映画の楽しみ方もあります。
たとえ、笑ってしまうような演出の穴をみつけてもそれはそれ。
もちろん、黄金バットのように「アハハハハ」なんて笑うような失礼なことはいたしませんて。
これまた懐かしい忍者映画。
見てました。見てました。
もちろん見ていたのは、ドラマ版ですが、赤影に関しては、少年サンデーに連載されていた漫画も見ていました。
原作は、横山光輝。
漫画の連載時には、「飛騨の赤影」というタイトルでした。
この横山先生は、あの当時の僕の「神様」でしたよ。
だって、彼の描く漫画には、ことごとくハマっていました。
最初はもちろん「鉄人28号」。
それから、「ジャイアント・ロボ」「魔法使いサリー」「バビル二世」。
ずっと後の「三国志」なんかも、読んでましたね。
横山先生の忍者物でいうと、この「赤影」の前に、「伊賀の影丸」がありました。
忍法「木の葉隠れ」の影丸です。
連載された漫画は、すぐにコミックになりましたので、これは何度も読み返しておりました。
面白かった。
確か、「伊賀の影丸」は、人形劇として、放送されていたんだよなあ。
ちょっとWiki してみたらありました。
TBSで製作されていますね。
この、「伊賀の影丸」の下地がありましたから、その流れで「仮面の忍者赤影」も漫画から入りました。
そして、テレビ放送が始まったのが1967年から1968年にかけて。
柿沢少年は、8歳から9歳。
漫画のイメージからは、かなりかっ飛んだ実写版でしたが、子供にとっては特に問題なし。
ガマガエルの怪物などは、漫画の原作にはなかったんじゃなかろうか。
なんだか、戦国時代の設定の割には、ハイテクな兵器がたくさん出てきて、子供心に苦笑いしてました。
赤影を演じたのは、坂口祐三郎。
かなりのイケメンでしたが、その精悍なルックスも、仮面で隠してしまっているので、顔の印象が薄いのは可哀想でした。
青影を演じたのは、金子吉延。
この映画の中では見られませんでしたが、彼が打つ相槌。
「がってん、がってん、しょうち。」
小鼻に指をあてて開きながら言う「だいじょうぶ。」
これは、よく学校でみんなでやりました。
この赤影の翌年には、「河童の三平 妖怪大作戦」で、堂々主演。
記憶のあるところだと、ウルトラマン 第15話「恐怖の宇宙線」。
彼の描いたイタズラ描きが、二次元怪獣ガヴァドンを出現させていました。
東宝映画「キングコング対ゴジラ」にもチラリと出演してました。
何回も見た映画ですから、覚えているのでしょう。
白影は、牧冬吉。
彼も、「河童の三平 妖怪大作戦」で、甲羅の六兵衛を演じていたので、記憶にバッチリ。
「隠密剣士」などにも出演していましたが、柔道少年だった僕としては、「柔道一直線」の嵐先生役が一番印象にあります。
この赤影に代表される東映の特撮は、 東宝の円谷プロの特撮、「大魔神シリーズ」に代表される重厚な時代劇特撮に比べると少々、クォリティが落ちるというのは、子供の目から見ても明らかでした。
東映のターゲットは、完全に子供に絞られていたのでしょう。
この映画も、「飛び出す冒険映画」と銘打った3D映画。
映画の中で、出演者が度々、メガネをかけるように観客に促します。
当時の観客は一斉に、入場の際に配られた3D用の紙製のメガネをかけるのですが、根が素直ではない柿沢少年は、メガネを付けないでスクリーンを見ていた記憶があります。
こういう演出も、東映らしいといえば東映らしい。
他の映画会社の作品では見たことないなあ。
1969年といえば、映画はだんだんとテレビに食われて、斜陽に拍車がかかってきた頃。
映画業界も、あの手この手と必死だったのでしょう。
東映は、「子供相手」では、先細りと判断し、この後、時代劇ポルノ路線、ヤクザ映画へと舵を切っていきます。
そして、僕たち子供のエンターテイメントは、完全に映画館から、お茶の間のテレビへと移ることになります。
映画業界は、青影のように、「だいじょうぶ」という訳にはいかなくなっていきましたね。
Amazone Prime で、なんとも懐かしい映画を見つけました。
「忍者部隊月光」
これは、映画ですが、僕が子供の頃に胸躍らされたのはドラマ版。
1964年から、1966年まで、全130話が放送。
僕がちょうど5歳から7歳にかけての、子供真っ盛りの頃。
見てました。見てました。
そして、今の子供たちが、「妖怪ウォッチ」や「アンパンマン」(例えが適切でないのはご勘弁を)に、ハマるがごとく、しっかりとこのドラマには、子供心をつかまれておりました。
原作は、タツノコプロの創始者・吉田竜夫の漫画。
しかし、この漫画の記憶は、ほとんどありません。
「少年キング」連載でしたが。、僕の当時の愛読書は「少年マガジン」と「少年サンデー」まで。
「少年キング」までには手が回りませんでした。
Wiki によれば、原作漫画は、第二次世界大戦の頃が舞台で、主人公は子供たちとか。
これは、まったく記憶にありません。
タツノコプロの漫画で、僕の記憶に登場するのは、あの「マッハGO!GO!GO!」以降のこと。
やはり、「忍者部隊月光」といったら、僕らの世代では完全にこのドラマの記憶です。
忍者部隊のあのヘルメット。白い刀。そして、手裏剣。
これは、当時ビニールソフトやプラスチック製でグッズが販売されていたので、きっちり揃えました。
そして、これをそろえられた子供たちだけが出来た遊びが、「忍者部隊月光」ごっこ。
こういう遊びをするとき、僕はたいてい隊長役をゲットしてしまう、したたかな子供でした。
あの、「待て」「行け」「集まれ」のかっこいいボディアクションも、みんな僕がやらせてもらいました。
そして、あの手裏剣。
これは、さすがに危険すぎて売っていませんでしたが、僕は「遊び」となると俄然盛り上がる少年でしたので、近くの鉄工所のゴミ箱をあさって、鉄の端切れを拾ってきて、これを隊員に配布。
手裏剣代わりにしていました。
今考えると、ぞっとしますが、この鉄の端切れは、うまいこと投げると、木製のものには、スコンスコンと気持ちよく刺さるんですね。
今だから白状してしまいますが、近くの三菱グラウンド(当時の浦和市上木崎)の裏の雑木林などで、よく投げて遊んでいました。
幸いけが人は出なかったからよかったようなものの、今考えてみると、まったくおっかないことをしていたものです。
さて、映画の方は、1964年の東映製作。
ドラマがオンエアされた年ですね。
Wiki してみますと、1964年の「東映まんが大行進」の中の一本として封切られています。
ですから、これ、間違いなく、大宮の東映の映画館で観てますね。
併映は、「鉄人28号」「狼少年ケン」「エイトマン」ですから、間違いありません。
あの当時、子供の頃に見たドラマですから、今更野暮なツッコミをするのはよしましょう。
子供心にでも、ワクワクさせられたのですからそれで上等。
こういう昔のドラマを見るときの楽しみのひとつは、「おーあの人が出ていたのか」という再発見。
主演は、水木襄で、東映のニューフェイスだった俳優。
同期の俳優が、佐久間良子、室田日出男、山城新伍。
この人は、このドラマの主演が、人生の花でしたね。
映画だけで見れば、彼にとってはこれが最後の出演作でした。
その後の出演で僕が覚えているのは、円谷プロ製作ドラマ「恐怖劇場アンバランス」の「猫は知っていた」
「あ、この人月光隊長。」と、気が付いた記憶があります。
その他のキャストを見てみると、忍者部隊が所属する「あけぼの機関」の機関長に中山昭二。
この人は、ウルトラセブンのウルトラ警備隊のキリヤマ隊長です。
それから、敵方のバラモン役が「悪役商会」のドン八名信夫。
シュナイダー役が、後でクレジットを見るまで気がつきませんでしたが小林稔侍。
このドラマは、アメリカにも輸出されました。
アメリカでのタイトルが、『Phantom Agents』
「忍者部隊月光」のタイトルソングは、もちろんいまでもちゃんと歌えます。
それでは、みなさんご一緒に。
もう、なんですか。
また、やってるんですか?
そりゃ、「short cut」では、褒めちぎりましたよ。
そのトライはさすが、三谷幸喜。
ワンシーンワンカット映画に果敢に挑戦した、脚本家魂を絶賛いたしました。
でも、それが評価されたと言っても、これは、そう何回もやってはいけません。
あのヒッチコックだって、ワンシーンワンカットに挑戦したのは、彼の長いキャリアの中であの「ロープ」一度きり。
そして、あのトライは、あの一度きりだったからこそ、今でも評価されているわけです。
ワンシーンワンカットという映画の作り方は、普通に撮影していれば、普通にできる演出の多くを犠牲にしています。
その代わりに、カメラを止めないことから発生する、現場の緊張感をすくいあげている演出。
舞台演劇を多く演出してきた三谷監督だからこそのこだわりがあったのでしょう。
見ている方としても、ワンシーンワンカットゆえの、多少の演出の無理は、最初の一回なら我慢できました。
でもですよ。
これを続けてやるとなると、見る方も学習します。目が肥えてきます。
当然今度は、このワンシーンワンカットでないといけないという演出上の必然性があるのかという話になります。
でも、「大空港」というタイトルからこっちが勝手に連想してしまう、パニックアクションシーンは一切なし。
ただ、ひたすらローカルの松山空港のグランドスタッフ竹内結子と、ワケあり家族とのスッタモンダを、これでもかこれでもかと見せてゆく展開。
生瀬勝久、戸田恵梨香、オダギリジョー、香川照之といった芸達者を並べて、ドラマを盛り上げてはいますが、やはり見ている方としては、前作「short cut」ほどの緊張感は維持できず。
もちろん、飽きさせてはいけないと、三谷監督の脚本は、あの手この手のハプニングのてんこ盛り。
まるでジェットコースター。
でも、これがよくなかった。
やり過ぎですよ。明らかに。
そもそも、こんなにいろんなことが、たった二時間弱の中で起こる道理がない。
しかも、地方空港という限られたスペースで。
前作「short cut」にはあった、リアリティが、このドラマでは完全に消滅していました。
役者も、通常のドラマ撮影の何倍もの緊張感を強いられた中での熱演には間違いなかったんですけどね。
撮影スタッフにおいては、それ以上の緊張感があったはずです。
もういいと思いますよ。
この企画はこの辺で。
但し、ワンシーンワンカットは、やはり演出としては、見応えがあることは事実。
やりすぎない程度に、ここぞという場面でトライしてみてください。
最後に一言。
でも、このドラマの、竹内結子はよかったなあ。
前から好きな女優さんでしたが、さらに一層ファンになりました。
この手法は、誤魔化しがきかない分、役者の魅力を引き出すにはいいのかもしれません。
さて、次は、なにか彼女の出演作品を見ることにしますか。
ワンシーンワンカットではないやつをね。