さて、昭和57年です。
西暦で言えば、1982年。
総理大臣は、中曽根康弘。
羽田沖でジャンボ・ジェットが墜落したのもこの年で、これが精神分裂症だった機長の逆噴射だったとか。
この「逆噴射」がこの年の流行語になりました。
恥ずかしながら、僕は大学を一年留年して、五年生をやった一年でした。
正直に申せば、四年間も大学生をやったのに、まだモラトリアムが足りなかったというのが本音。
ネクタイをして、毎日満員電車に揺られて、会社に通うサラリーマンを自分がやるということが、どうにもピンと来ないでいました。
とにかく、自分にそんな才能があるとは知りながらも、作家、映画評論家、音楽ライター、作詞家、童謡作家、コピーライターなど、自分の趣味の延長でなにか仕事ができないものかとジタバタしていた時期です。かなりのモヤモヤを抱えていました。
友人たちの多くが、もう学生気分にはケジメをつけて、リクルートスーツに身を包み、会社訪問をしては、続々と内定をもらっている時期になっても、なかなかサラリーマンになるという踏ん切りがつかないでいましたね。
ですから、取ろうと思えば取れたにもかかわらず、わずか4単位だけを残して留年を決めたのは、明らかに確信犯でした。
そんなわけですから、さすがに、親に授業料を出してとは言えずに、最後の一年は、授業料は自分で払うと決めました。
その頃には、相当数のアルバイトをこなしてきており、バイト代で授業料くらいはなんとかなるという自信があったし、すでにかつてのバイト先からもお声がかかっていたんですね。
しかし、留年の話を聞きつけて声をかけてくれのは叔母でした。
我が叔母は、実業家と結婚して、東京都港区三田でマンション経営をしていました。
そのマンションの管理人が辞めてしまって、今現在管理人室が不在だというお話です。
都内のマンションで、管理人が不在なのでは物騒だから、昼間は授業に行っても構わないので、住んでくれないかというのが叔母の依頼。
実際三田から、大学のある白山までは都営地下鉄線で30分で、京浜東北線の与野駅からと比べたら、圧倒的に楽です。
しかも、三田といえば、銀座にも近ければ、赤坂・六本木もそう遠くはないロケーション。
これはまたとない「遊びの基地」ができると妄想は膨らんで、二つ返事で引き受けたのは言うまでもありません。
しかし、それを察したか、叔母からはさらなる追加依頼。
なんと、当時小学校5年生になる娘の家庭教師もお願いしたいというわけです。
しかも日曜以外は、毎日です。
もちろんアルバイト代はもらうことになるわけですが、残念ながら、これで胸膨らませた「東京夜遊び計画」は、泡と消えます。
しかも、家庭教師というアルバイトも初めてのこと。
いろいろなバイトはやりましたが、家庭教師だけはやったことがありませんでした。
ちなみに、叔母のご主人は、前妻と死別されています。
その前妻との間に生まれた子供が2人。
叔母からすれば、結婚した相手は、2人のコブ付きだったということです。
このご主人からの熱烈な求愛を受けて(叔母の話をそのまま信じれば)後妻となった叔母との間に生まれたのが、この小学校5年になる女の子。
彼女からすれば、義兄にあたる二人は、どちらも成績優秀で、それぞれ学習院大学、慶應義塾大学を卒業して、そろって大企業に就職をしている超優等生です。
ちなみに、叔母のご主人は、東京大学卒業。
親戚として、そんなことは百も承知しているこっちは、それを聞いてビビります。
そんな優秀な家族がいるのに、なんで、三流大学に5年も通っているような、こんな不良大学生に、娘の家庭教師など頼めるのか。
すると叔母は顔色ひとつかえずこういうわけです。
「お父さんや、お兄ちゃんたちは、頭が優秀すぎて、出来ない子の気持ちがわからないのよ。イライラしちゃうみたい。でもほら、あなただったらねえ。」
そう言われて、こちらはストンと納得してしまいました。
なるほど、そういうことならよくわかります。
そして、彼女はまだ小学五年生。
彼女が中学お受験を迎える小学六年生でなかったことも幸いしました。
よっしゃ。そういうことなら、この一年は、毎日一時間、この娘と遊び倒してやろうと心に決めましたね。
幸い授業の現場はこちらの陣地である管理人室です。
最上階に住んでいた叔母たちには、こちらがどんな授業をやっているのかは分かりません。
実際彼女とした授業は、ギター伴奏で一緒に歌を歌ったり、彼女が作ってきた歌詞に曲をつけたり、車があるときには東京港あたりをドライブしたり、一緒にジョギングしたりなどなど。
時々は教科書も開きましたが、そちらの方はあまり覚えていません。
彼女もなかなかわかっていて、この出鱈目な家庭教師と、管理人室でどんな授業をしているかということを聞かれても、家族には言わなかったようで、結局一年間クビにはならずに、このバイトは続くことになりました。
もちろん、彼女の成績は上がることなく、このバイトは、僕の一年遅れの大学卒業と同時に終わることになります。
そんなわけですから、この年のヒット曲の多くは、どの曲も、管理人室で、同じ歌本を開いて彼女と一緒にギター伴奏で歌った曲がほとんど。
「東京夜遊び計画」は叶いませんでしたが、大学5年生で過ごしたこの一年は、なかなか思い出深い年となりました。
さて、この年のヒット曲で、今でも歌えたものは、以下の通りです。
渚のバルコニー(松田聖子)
スターダスト・キッズ(佐野元春)
シュガー・タイム(佐野元春)
彼女はデリケート(佐野元春)
ハッピー・マン(佐野元春)
ラ・セゾン(アン・ルイス)
匂艶 THE NIGHT CLUB (サザン・オールスターズ)
北酒場(細川たかし)
YES MY LOVE(矢沢永吉)
待つわ(あみん)
居酒屋(五木ひろし&木の実ナナ)
3年目の浮気(ヒロシ&キーボー)
全45曲